老人医療NEWS第99号 |
医療制度改革において、医療機能の分化と連携の推進が大きなテーマとなり、各地域における医療提供体制を確立することが求められている。特に四疾病(癌、脳卒中、心筋梗塞、糖尿病)については特別とされ、四疾病毎の地域医療連携体制の構築が各地域で検討されているのはご承知の通りである。
ところで、病理学的には疾病のステージを急性期、亜急性期、慢性期としているが、リハビリテーション医療では急性期、回復期、維持期としている。その方が医療サービスとして現実的な対応が容易だからである。老人医療においても病理学的区分よりリハ医療区分がなじむと思われる。
しかし、実際の医療連携はこうした杓子定規な医療区分による連携だけではうまくいかない。地域によって医療施設や介護施設、在宅ケアの整備状況が異なり、大都市と郡部を比較しても大きく異なる。すなわち、地域医療連携における地域という概念が意外と難しいのである。ただし、地域が異なっても急性期医療の担い手は救急機能を有する病院とプライマリ・ケアを担う診療所であり、慢性期医療の主な担い手は診療所であることは共通している。二十四時間三百六十五日対応する救急病院による昼夜を問わない医療提供体制が医療サービスの基盤である。
小生が医学生の頃、診療所の医師は夜中や休日の往診をいとわなかった。往診ができなくなれば医師として失格と考える者もいた。一方、病院では二十四時間三百六十五日稼動し急患を拒むことを敗北と考える救急病院も存在した。こうした医療機関における医師や看護師等による懸命な、犠牲的かつ献身的活動が地域医療の基盤を支えていた。
しかし、時代は変わった。少子高齢化、老年病の増加、要介護老人の増加に加え、国民の医療に対するニーズは高度化・多様化の一途をたどっている。こうしたニーズに対応するため、かつての老人の専門医療を考える会は常に時代を先取りしていた。付き添いの看護の廃止、注射・投薬の適正化、リハビリの充実、ソーシャルワーカーの配置、チームアプローチの強化、療養環境の改善などに各病院が努力し、実績を上げたことで制度化につながった。
ところが、国家の方針が医療費の伸びを抑制する方向となってから、当時の勢いは感じられない。先取りというより後追いになりつつあるようにも感じられる。めまぐるしく変わる医療制度に翻弄され、将来を見据えた戦略がたてられなくなってしまったのかも知れない。しかし、こうした時こそ原点に立ち返るべきである。すなわち、医療とはそもそも地域医療であり、地域を抜きにした医療サービスはいずれ衰退するという原則である。
老人医療も地域抜きには語れない。制度に振り回されずに、コミュニティーに基盤をおき、そこに住む人々の信頼に応える老人医療サービスの構築こそ二〇〇九年の課題ではないかと思う次第である。
折りたたむ...ある時、リハビリテーション(以後リハビリと略す)の高名な専門医に「流れ」の重要性を説かれた。その時に比喩された「川の流れのように川上から川下へ」という表現が、ずっと頭の中から離れない。素直に受け止めればその通りと納得してしまうことだが、私はあまり良いイメージに受け止められなかった。
急性期から回復期、そして維持期へ、淀みなくスムーズな連携が必要であることは理解できるが、高齢者の慢性期医療・ケア、そしてリハビリに携わってきた立場で、単に流れ着く場所として位置づけられていることは、当法人の理念である「老人にも明日がある」のイメージとどうしても結びつかない。個人的なつまらない拘りなのか?あるいはコンプレックス?それとも被害妄想?果たしてそうだろうか。老人の専門医療を考える会にとっても、会の足跡を否定されているように思えてならない。でもやっぱり考えすぎなのだろうか。
介護保険制度創設に向けて走り始めた頃、リハビリ前置で制度が作られていくことを知り、自分の目指してきた道が開かれていくような明るい気持ちになったことが思い出される。「前向きに介護保険に取り組もう。同時に導入される回復期リハビリ病棟を在宅復帰促進の機能として位置づけ、復帰後の生活を支える『リハビリ』を充実させよう。」また、「在宅復帰が叶わない人たちに、帰れない辛さや寂しさを感じないでもらうために、私たちができることを見つけよう。」そんな気持ちで取り組んできた。
高齢者リハビリ研究会の委員にも就任し、医療保険から介護保険へのつなぎの重要性を主張した。介護現場でのリハビリの充実を仕事の中心に置き実践してきた。このような取り組みがやっと報われ、次回の報酬改定に結びつく可能性が出てきたことは、本当に嬉しいことである。
多くの人がその必要性は認めてくれるようになったものの、相変わらず「維持期」に対するイメージはリハビリ終了後の時期という認識が、医療に携わる人たちほど強い。冒頭に述べた「川上から川下へ」の考え方は、まさにこのような人たちの考え方であろう。
急性期から回復期は長くても六ヶ月程度であり、その後「自立した生活を実現するためのリハビリ」が必要な時期が数年、十数年、数十年と続く。人生のクライマックスのその時まで、個々の生活のニーズに対応したアプローチをすることこそがリハビリに携わる人たちの本懐にならなければならない。
私は「川上から川下へ」は「急性期から回復期」であり、その後の時期は、「海」と考える。元々の生活の場であった「海」に戻るために「川」はある。また、「海」は全てが川から始まっているわけではない。これは脳卒中や骨折などの急性期・回復期の時期を経る人たちのみがリハビリが必要なのではないことに通じる。
「海」はいつも穏やかではない。目標も見つけにくい。そのような波瀾万丈の人生・生活の場面こそ、私たちチームがサポートする最も重要な時期であり、場所であることを再認識するべきである。
リハビリは生活を展開していくための原動力です。「維持期」という名称は何とかならないでしょうか。皆さんで良いネーミングを考えましょう。
折りたたむ...世界的なクラウニング活動をおこなっているパッチ・アダムス一行が、日本ツアーの一環で各地の病院や施設の訪問活動をおこなった。
九月十三日、信愛病院にもパッチはやってきた。車を降りた時点からすでにクラウニングは始まっている。おなじみのど派手な服に赤鼻をつけて、だいぶすり切れた例の魚をぶら下げて病院に入ってくる。挨拶などは一切なしで、とりあえずすれ違う人に「フィッシュ」といいながら近づいたりハグしたりする。はじめはビックリするが、すぐに笑顔に変わる。それでもパッチはあいかわらずの仏頂面をしているので、そこでまたおかしさがこみ上げてくる。
病棟では音楽を演奏しながら行進したり、バルーニングをしたり、ダンスをしたりハグしたりとなんとも賑やかだ。会話らしい会話はほとんどない。さまざまな国のメンバーが参加して各国で活動しているせいもあって、非言語的コミュニケーションをメインにしているからだ。
患者さんたちも最初はビックリ顔だが、じきに笑顔になる。パッチたちは患者さんの状態によって、わざと大声で驚かせたり、いっしょに笑ったり、辛そうな人や意識がはっきりしない方には、だまって手を握ったり体をさすったりと対応を変える。みな初対面であるのに、そのすばやい判断はさすがに手慣れたものだ。
興味深いことに、患者さんたちは外国人クラウンが相手だとすぐに笑うが、日本人クラウンが近づくと一瞬、相手をうかがうようなそぶりをする。それから、はにかむように笑う。この一瞬のタイムラグは、日本人の国民性に関係があるように感じる。
さて、「笑い」と一口にいってもさまざまだ。ひとたび「笑い」に「お」が付くと、落語や漫才の世界になる。そして、どちらかというと「お笑い」は関西の響きがする。関東以北でしか暮らしたことのない私にとって、オーバーな身振りや大声で笑うことは稀であったせいかもしれない。関東の「あはは」は関西では「ぎゃはは」で、関東の「うふふ」は関西の「いひひ」だし、笑顔の表情も関東では「ニヤーッ」関西は「ニカーッ」のような気がする。
最近のテレビや若者同士の笑いは、完全に関西式の笑いが主流になったといってよい。「ぎゃはは」と笑い、後に残らない。関東の落語のようにすこし間があいてから、ああそうか、うふふと笑うことが少なくなった。
ある研究会で日本笑い学会会長井上教授の講演を聴いた。笑いが心と身体に及ぼす影響について話され、笑いは免疫力を高めるという理論の紹介と、共に笑うことが互いの距離を縮めることや、笑いという人生の妙薬があれば、病や事故や災害などの失敗や不幸を背負っても生きられることなどについての内容であった。しかし、そのあとに、どうしても晴れない違和感が残った。関西と関東では笑いの質が違うのではないかということである。
それは、井上教授のいう笑いは関西式で、なんでもいいから取りあえず笑い飛ばすということであるが、関東の笑いは理屈があってから笑いがくるように思う。つまり、なぜおかしいかを判断してから笑うので、取りあえず笑おうやと言われても、なんで…ということになってタイムラグが生じてしまうからだ。
パッチの時に感じた違いは、外国人と日本人が持っているDNAの差かもしれないし、日本人同士であっても、関西と関東では南方系と北方系のDNAの違いによるものかもしれないなどと、勝手に納得した。
まあ、どちらのDNAを持っているにせよ、このご時世、笑いを忘れないようにしようではありませんか。
折りたたむ...平成十八年六月十四日、医療制度改革関連法が成立したのは、かなり以前のように思う。後期高齢者医療制度も、医療費適正化計画も、そしていわゆるメタボ検診もすべてが盛り込まれていたのである。
しかし、二年半前以前、すくなくとも平成十七年十二月一日に政府、与党社会保障改革協議会による「医療制度改革大綱」が発表され、医療費適正化の総合的な推進、新たな高齢者医療制度の創設、保険者の再編・統合等を進めることが実質的に決定されてからの約三年間、政府は、国会は、そして厚労省は何をし、何をしなかったのだろう。
「改革大綱」に対して、大きな反対はなかったし、何となく社会保障の伸びをどうにかしなければならないことも、医療費は相変わらず問題視されていることも理解できた。医療費の伸びを毎年二二〇〇億円どうにかしろと言われても、その金額がどのように医療に影響するかについて、十分理解できなかったとも言える。まさか医療を崩壊させるようなことはないだろうと思わざるをえなかった。
問題は、なぜ平成十八年六月の医療制度改革関連法が、十分に注目されずに、国会を通過したかといったことである。小泉首相がいた、衆参両院で与党が圧倒的に強かった。特に郵政民営化選挙は与党にフリーハンドを与えていた。それを可能としたのは選挙民の我々でもある。
当時の新聞や資料を引き出して確認してみると、あの時、我々は療養病床廃止の問題で右往左往していた。国会議員の先生も「どうすればいいのか」「廃止に反対するから」といった、言葉をかけてくれていた。しかし、改革関連法案は、政治家の反対があっても既定路線として行政によって強力に推進されていった。
我々が療養病床にあれだけ反対している時に、実は他の改革関連法案の中身は、あまり点検されず、国会で審議もされず、それでも成立してしまったのである。あとの祭りなのかもしれないが、療養病床問題に多くの人々が関心を持ち、そのことで賛否両論の活動が展開されている最中、改革法案の中身はまったく「議論」されなかったといってもよい状態であった。
もっとはっきりいえば、療養病床問題が、煙幕となり、その他の制度改革の全貌が国民の目には見えない状態の中で、改革関連法案は国会を通過したのである。このことは、国民にとっても、国のあり方にとっても不幸なことであったと思う。
平成二〇年四月一日実施の後期高齢者制度の大混乱の原因は、まさにこの点にある。老人保健法を「高齢者の医療を確保する法律」に変更し、高齢者医療の責任を地方自治体による「自治事務」においやり、あたかも国の責任を放棄したかのような仕組みを創り、それが「国から地方へ」という政治スローガンの具体化であると説明する。しかし、一方で、国民健康保険財政で長年苦しめられてきた市町村は「老人医療はかんべんしてくれ」といい、都道府県は「我々は責任を持てない」と明言してしまったわけである。
この三年間を振り返ってみれば、政治も経済も、社会も医療も何も改善されず、バタバタと悪い方向に時間が過ぎたように思えてならない。小泉元首相から三人の首相がコロコロ変わり、誰が責任者なのかさえわからないキリモミ状態になってしまっているのである。
我々が、老人専門医療の現場から、改めて強く主張したいのは「老人医療の最終責任は国にある」というきわめて単純なことである。企業や組織あるいは病院や医療機関が責任を放棄してしまえば、誰が社会をそして老人医療を支えるのか、決してどうでもいいことではないぞ。
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