老人医療NEWS第98号 |
福岡県療養病床協会は、本年7月に日本慢性期医療協会の福岡大会を盛大に開催いたしました。平成十年福岡大会での「抑制廃止福岡宣言」から十年、その呼びかけは厚生労働省令にまで発展していきました。「高齢者に自由と誇りを」という私たちの願いは全国に広まったと思っています。
しかしながら、平成二十七年には認知症の高齢者が二五〇万人になると予測されている中、医療費・介護費の削減、人員配置は削られ、高齢者は今後どうなっていくのでしょうか。格差社会の上層にいる者だけが自分の望む医療・介護を受けることができ、低層の者は提供される医療・介護で我慢することになるのでしょうか。国民皆保険の現在では、医療・介護を同じように受けることができると思っていますが、その常識もいつまで通用するのかと末恐ろしくなっています。マスコミの報道が全て正しいという訳ではありませんが、国民の不安が増大していることは紛れもない事実でしょう。
厚生労働省は療養病床を削減し、拡大する医療費の高騰を抑えようとしていますが、医療費の拡大は高齢者医療だけに原因があるのでしょうか。また、そうだとしても高齢者を在宅に復帰させる為の要件は全て整っているのでしょうか。高齢化率二十六%を越す福岡県宮若市では、老々介護、一人暮らし、日中一人、老夫婦共に施設・病院暮らしなど、過疎地の抱える高齢者問題が全て網羅されているといっても過言ではありません。現在は在宅の範囲が自宅以外にも、グループホーム、ケアハウス、介護付有料老人ホーム、在宅支援ハウスと大変幅広くなっています。しかし、国民年金だけで暮らす高齢者にとって、子供達からの援助なくこのような在宅型施設に入居することは困難です。「在宅に戻りたい」「自分の家で暮らしたい」、この高齢者の本音の叫びは、「自分の持っているお金で、子供達に迷惑をかけずに最期を迎えたい」ということだと思います。自分の身体がどうにか動く間は自宅で頑張り、動かなくなれば、自分のお金でまかなえる施設にでも行かなければしようがないだろうという諦めが見えてきます。
この高齢者の最後の砦の介護三施設にも、行政のメスが入れられそうな気配です。現在、介護三施設の食費と居住費に対しては、低所得者への補足給付がなされていますが、このサービスの行方が微妙な状態になってきました。他の在宅型施設からの補足給付をつけてほしいとの要望に、足並みを揃えるために反対に介護三施設の補足給付をはずしてしまおうという動きが出てきたのです。これが実行されると、低所得の高齢者は、行き場所が全くなくなってしまいます。
私達は「痛みを分け合う」「骨太の改革」との小泉政権の勢いに流され、着地点をどこに置けばよいのか迷っている状態ですが、これからも高齢者中心の医療・介護の提供に努めていくという軸だけはぶれずにいたいと考えています。
折りたたむ...現在、高齢者を取り巻く問題として『栄養改善』、『低栄養の予防』など、食のケア場面の改革が求められています。さて、私たちケアの現場では、本当に見た目も、味も美味しい食事を提供できているでしょうか。
美食家の先生が多い中、私は単なる食いしん坊です。そのためか、食事に非常に思い入れがあります。十数年前にふと目にした、まずそうな刻み食にショックを受けました。おりしも適時適温の制度改正もあったため、麻痺の方も自分で持つことができる日本で一番軽い保温食器はどこのメーカーかということを手始めに、「重度の状態の方に一口でもおいしい食事を出すこと、刻み食、ミキサー食をなくすこと」を切に願いつつ委託業者の変更や管理栄養士の増員、厨房の改装等の取り組みをして参りました。
そして、数年前から高齢者ソフト食を提供できるようになって来ました。高齢者ソフト食とは黒田留美子さんが発案された「嚥下障害がある方に安全でおいしい食事を食べていただく」ということを目的に開発された「しっかりと形があり、見た目に美味しそうで、口の中に取り込みやすく、歯や歯茎、唇や舌で咀嚼しやすく、口の中でまとまりやすく、喉の奥まで移送して飲み込みやすい」という特徴を持つ食事の形態です。
実は数年前、健康な方に刻み食をお見せしたところ、「これは鳥のえさでしょうか」と、本当に怪訝な顔をされました。どろどろとしたアメーバのようなミキサー食には思わず顔をゆがめ、「試食もイヤだ」と言われました。これが健康な人の普通の反応なのです。
今でも病院・施設では刻み食やミキサー食が提供されていますが、飲み込みや咀嚼の悪い方にとって、刻み食やミキサー食が適しているという明確な根拠はないとされています。反対に、刻み食が嚥下性肺炎を招くというエビデンスはいくつも報告されています。
ケアのプロとして、私たちが本当に提供しなければならない「食事」とはいったい、どのようなものなのか。『食べないことには理由がある』、そして「食事もケア」ということをチームで考え続けています。ご本人の食べたい気持ちを引き出す食事支援の仕方(いわゆる食事介助ですが「しょっかい」なんて略してほしくありません)とは、人を含めた周囲の環境、そして提供される食事そのものの見た目、香り、味付け、温度や食べやすさ、季節感や雰囲気、こういったものがすべて考慮されて始めておいしい食事になるのだと思います。
当院では食事を作る栄養スタッフだけでなく、看護・介護職、その他の専門職とともに、食のケアの向上に取り組み、今、ようやく刻み食ゼロになりました。まだまだミキサー食は無くすことが出来ませんし、いつも満点の食事が出るとは限りません。しかしスタッフが多職種で「食事」というものを考えるようになって来たと思っています。
本来、食事箋はもっと医師が責任を持つべきであり、「医師にも出来る食事への思い入れ」は、実は慢性期医療を担当する医師の特権ではないか?!と思うくらい食事ケアが好きです。老人の専門医療を考える会では食事を重視していらっしゃる病院が多いと伺っております。色々な食事の種類をこれから勉強させていただきたいと思います。
折りたたむ...数年ぶりに高知に戻り、当時往診していた患者さんの事を思い出した。その方は八〇歳の女性で、平成元年頃に脳梗塞で倒れた。小脳梗塞で、手足の麻痺はなく、動かすと振戦が生ずるぐらいであったのだが、梗塞の部位が悪かったのだろう。
めまいがあり、「気持ち悪い、吐き気がする」といって食事を摂ろうとしない。こうして、急性期病院から長期療養を引き受けた病院では食事にトライする事なく、めまいのため起こす、という事もなく、五年間ベッドでずっと臥床し、中心静脈栄養をされていたのである。
当時は付き添い撤廃の時勢の流れがあり、病院でも付き添いを撤廃する傍ら、手のかかる重症の患者さんには転院もしくは退院を勧告していた。この方も退院を勧告されたが、娘さん夫婦は離婚し高知にはいない。さりとて引き取り手がないから退院はしなくてもよいというわけにもいかず、三十五歳になる孫娘が、責任感から、自分の四人家族の元に引き取る事にした。
そして五年ぶりに病院から外に出た。しかしである。自宅に帰ったものの寝たきりの上、医療的な対応が必要であり、これは困ったと当院に往診の依頼をされた。そこから医師、看護師、セラピストの訪問が定期的に始まった。
そもそも中心静脈栄養の必要はない為、経管栄養に切り替えたのはよいが、この五年間ベッドから起きた事がなく、車椅子にも座っていなかった。全身性の廃用症候群であり、関節の拘縮も著しい。起こせば目が回るといって本人は拒否するが、臥床のままでは更なる廃用を引き起こすため、総力戦で体を動かし車椅子に座らせたところ、食事も座って自力で取り、髪も鏡を見てとかすようになった。座位時間が徐々に長くなるにつれ、めまい感も減り、車椅子に乗って庭にも出た。
病院にいた五年間は何だったのだろう。ケアをするとはどういう事か、を考えさせられた。
このケースにはまだ続きがある。高知にいる孫家族が奮起して自宅に引き取ったのだが、病院にいても何もよくならなかった事もあり、家族は再入院させるような事は全く考えておらず、在宅でできるだけのケアを行っていった。しかし、四年ほど後、ある日急変した。
緊急の検査と治療が必要なため当院へ入院したところ、巨大な脳梗塞を発症していた。意識の悪さからみても回復は困難であり、このまま亡くなる可能性が高い事をお孫さんに説明したところ、最後まで自宅で看たいのでつれて帰りたい、と申し出られた。夜七時半、病院の救急車に乗せ、自宅までご本人を連れて帰り、いつものベッドに寝かせた。ひ孫がまだ起きていて迎え入れてくれた。そして深夜を回り、午前三時過ぎ頃、息が止まった、と連絡があった。急いで自宅を訪ね死亡を確認した。
人はいつか亡くなる。様々な理由で長期入院を余儀なくされている方々がいて、またそれを支えている病院や施設も沢山あり、すべてが必要な仕事である。このケースもあるきっかけから退院する事になり、見たところは元気にはなったものの、身の回りの介護はほぼ全介助である事に変わりはなかった。ある意味、病院にいる時と全介助の状況に変化はないが、少なくとも自宅に帰った事によって、「元気な人」になった印象がある。
お孫さんも重度の障害があるまま自宅でお世話していたので、今度何か起き入院してもこれ以上よくなる事はないと了解していたのであろう。状況が厳しいことを告げると、「連れて帰り自宅で最後を看ます」と言い切ったのである。
決して強い決断と覚悟がもてる方ばかりではない。自分はそうした家族の決断の、一翼を担えるような医療人でありたい。
折りたたむ...社会保障国民会議(座長=吉川洋東大教授)は、今年六月一九日に福田首相(当時)に中間報告書を提出した。「選択と集中」の考え方に基づいて効率化すべきものは思い切って効率化し、地方で資源を集中投入すべきものには思い切った投入を行うことが必要というのが「基本認識」である。
同会議には、所得確保・保障(雇用・年金)分科会、サービス保障(医療・介護・福祉)分科会、持続可能な社会の構築(少子化・仕事と生活の調和)分科会がある。
この三分科会のひとつであるサービス保障分科会の第七回(九月九日)の資料で「社会保障国民会議における検討に資するために行う医療・介護費用のシュミレーションの前提について」という資料が配付された。
取るにたらないシュミレーションだというのは簡単だが、医療や介護をどうするべきかという「本音」が見え隠れして興味深い。いろいろな前提や考え方を説明してあるので是非実物を精読して欲しいが、一応「大胆な仮説において、シュミレーションしたものである」というのでその「大胆さ」を吟味しておくことが必要だと思う。
今後の医療・介護サービス提供体制については、現状投影ケースAと選択と集中等による改革を図ることを想定したケースB(改革ケース)を示している。このケースBは、さらに三つに見分けられて示されている。
まず、ケースBの基本的考え方は急性期医療については、医師・看護師の配置引上げや医師機能の一部をコメディカルに移管することが前提とされている。また、亜急性期・回復期については、リハビリ等の機能強化における急性期からの移行促進、地域ネットワークや連携パスによる在院日数短縮化、コメディカルの配置引き上げが示されている。
長期療養(医療療養)については、「現状より医療必要度の高いものを中心に入院させ、介護施設等との役割分担推進、介護施設や居住系施設については、「一般病床の機能分化や介護・居住系施設の量的充実を前提に、人員配置は現状維持(平均要介護度は上昇)」と書かれている。
さらに、在宅医療・在宅看護に関しては「たとえば末期がん患者に対する二十四時間ケア体制の構築、居住系施設に対する往診体制の強化を織り込むなど、提供体制改革による在宅利用者の状態像の変化を踏まえた地域医療体制の強化を織り込んで単位を設定」とある。
その結果示されていたのが、ケースB一からケースB三の三案で、医療療養二十三万人日前後、介護施設一四九万人日程度というのは同一で、B一とB二の差は、主に急性期と亜急性期・回復期の人数の差のみである。ケースB三は、高度急性期一八万人日、一般急性期三十四万人日、亜急性期・回復期三十六万人日、医療療養二十三万人日ということになっている。またケースBは全てで病院の外来を専門化する方向で、病院の一般外来需要は診療所で対応するという考えである。
なお、これらのケースで医療・介護費用の推計もなされているが、いずれもあらい推計で、参照にできるようなものではない。
病院の一般外来は診療所機能として、病院は専門外来と救急(説明はないが)のみとする。急性期病床に関しては五〇万人日程度とし、特に、高度急性期は一八万人日として、その残りを一般、また三十六万人日を亜急性期と回復期にふりわけ、医療療養は二十三万人日、残りは介護施設、居住系や在宅サービスで対応するという考え方がはっきりと示されているのである。問題は、二十三万人日の医療療養以外は介護施設化することが前提になっていることだが、実現性はあるのだろうか。
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