老人医療NEWS第100号 |
この「老人医療ニュース」も昭和六十一年七月の創刊号から二十三年の時を経て今回で一〇〇号という節目を迎えた。
今後、十年以内に、いわゆる団塊の世代である昭和二十年代前半生まれが六十五歳以上の高齢者になりきり、人生八十五年時代のいま、団塊世代が七十五歳になる二〇二五年以降を見通した社会保障制度の確立が政治の大きなテーマになってきている。
昨年の七月には「認知症の医療と生活の質を高めるプロジェクト報告書」が公表され、十一月には「社会保障国民会議の報告書」と「安心と希望の介護ビジョン」が相次いで発表された。それらによると、今後の医療・介護のサービス提供体制については「選択と集中」の考えの下、病院病床については急性期・亜急性期・回復期リハビリ病床、医療療養病床に機能分化し、一般病床のうち急性期病床は三分の二に縮小し、人員配置を現状の二倍にして平均在院日数を半分の十日にする改革案が提示されている。
さらに、介護保険施設に関しては緩やかな増加を見込む一方、グループホームを含む居住系は現状の二倍、小規模多機能施設を含む在宅は現状推移を上回る数値が示されている。そして、これらの実現のためには消費税率四%に相当する費用が必要なことも述べられている。
ここから見えて来るものは、治すべき病気は人員を多く配置した病院で一日も早く治して退院させること、リハビリテーションが必要な人には短期集中的にリハビリテーションを提供して住み慣れた日常生活に戻ってもらうこと、生活機能が衰えて介護が必要な人には尊厳を保ってその人らしく自立した人生を全う出来るように、生活を支える視点で援助するという方向性である。
これから、このビジョンの行間を埋める作業に着手しなければならない。私は団塊世代の六十二歳である。私が「高齢者」の仲間入りをする三年後には診療報酬と介護報酬の同時改定が行われる予定である。私事で恐縮であるが、もう三年現役でがんばることにした。私どもの法人の年頭式で「今年を、鴻池グループにおける高齢者医療・介護の再構築元年とする」と宣言してしまったのである。
今年は、全室個室の三ユニット、二十九人定員のサティライト老健を開設する予定である。具体的に何をするかはまだ決まっていないが、いずれにしろ新たな実験と高齢者ケアへの挑戦が始まる。
本誌九十一号で提言した「老人医療課の新設」が昨年の十月、厚生労働省保険局に「高齢者医療課」として新設された。当面は後期高齢者医療制度の見直し作業が主な仕事のようであるが、医療を必要とする要介護高齢者のための一体的施策立案に期待したい。
折りたたむ...生まれてはじめて患者の葬儀に参列しました。医者になって一番長くみてきた患者でした。
畳屋さんで、脳梗塞で左片麻痺・失語になって重度の構音障害は残りましたが達筆で診察はいつも筆談でした。朝・夕は胃瘻で昼はむせながらも何とかご飯を食べていました。いつもにこにこして明るくて、女の人が大好きで、うちの職員の殆どがラブレターをもらっていました。デイケアには電動車いすで通って「院内暴走族」とデイケアの室長に怒られてました。外来診察のたびに「嫁をもらってはやく結婚しろ」「子供をつくって早く跡継をつくれ」「こんど入ったあの看護婦さんは(嫁に)どうだ?」とからかわれてました。
肺炎になったり、尿路感染になったり、インフルエンザからの脱水や、胃瘻造設、奥さんの入院などで当院には数え切れないほど入院しましたが、その度に、元気に自宅に帰っていました。奥さんは岩手の訛りで「帰ってくると大変だけど、本人帰りたいっていうからね」と明るく笑いながらうれしそうに迎えにきていました。
腎結石・尿路結石の手術で大学病院を紹介したとき、見舞いにいったらすごく喜んでくれ、退院した後には病院に三箱の生のホタテが送られてきて職員みんなで一生分のホタテを食べました。
病院の増築や改装の度に自分のことのように喜び「どんどん大きくなるねえ」と聞き取りにくい声で言ってくれました。「他の病院に入院するといつもここに戻りたいっていうのよね」と奥さんも言ってくれました。
最期は、他の病院で、静脈瘤破裂・肝不全で亡くなりました。
それまでは、知り合い以外の患者の葬式には参列したことはありませんでした。「医者は患者の葬儀に出るものじゃない」「医師の最後の仕事は死亡診断書を悔恨の中で書くことだ」と研修医時代に教わった気もします。「出席すべきではないもの」・・・それが私の中での「患者の葬儀」でした。
でも、この訃報を聞いたとき参列させてもらいたいという気持ちのまま葬儀の詳細を尋ねました。お通夜の会場に向かう間、遺族から「あなたのせいだ!」とか「なにしにきた!」などと行き場のない気持ちをぶつけられたらどうしようかという想いが頭をかすめ、「やはり出ない方がいいんじゃないか?」と自問自答を繰り返しました。
葬儀会場には、多くの参列者がいました。焼香を待つ間、自分がみんなに見られている気がしていました。自分の順番で一番前にきました。遺影は私が知らない若い元気な笑顔でした。右には奥さんが子供や孫などの大勢の家族に囲まれていました。自分の知らない彼の人生を垣間見た気がしました。涙が込み上げてきました。
そんな姿を人に見られたくなくて足早に帰りました。
数日後、奥さんが病院にみえ、沢山の職員にあいさつに回ってくれました。そして最後に私と話をしました。「やっと落ち着きました。」と、いつもとは違う、見方によっては力のない笑顔でした。
ふいに「最期も先生のところにもどりたいって言ってたのよ」と言われたとき、ぼろっと涙が出てしまいまし。あとはうつむいてしゃべるしかありませんでした。
ご冥福を祈って、筆をおきます。
折りたたむ...日曜日の午前中、予定の無い時はテレビを観て過す事が多い。早朝の時事放談から始まって、六、八、一、十とリモコンを手にだらだらと時間を潰すのだが、時には貴重な日曜日の半分を無駄に過したと後で悔んだりもする。最近の番組を観てそんな気分になる事が多くなった。
政治や経済の混乱を伝えるのだが、どの局を見ても二〇〇八年度第二次補正予算・関連法案審議で定額給付金の賛否、消費税引き上げ、更には昨秋来の金融危機をきっかけとした派遣労働者などの大量解雇への対応等が論点になっている。政策論議というより、選挙を前にした政局がらみの自己宣伝的な主張や、政治家個人の自己保身など、意地の張り合いや感情的な話しに終始しているからである。
今発生している派遣社員・期間労働者の失職問題も、万般の経済構造や社会構造の変化する中、これまでの政府が改革として称して推進してきた政策の結果の筈である。その進め方は今回の様なリスクを想定しない規制の緩和・撤廃といった乱暴な手法であったが、経済状況が安定していた時期にはむしろ歓迎されていた節もある。これらは、会社にとっては労働力の確保策としてや、生産性に応じた労働力の調整弁としての役割を果たしてきたとも言えるし、労働する側にとっても就労形態の多様化や個人の自由度の高さといった面では歓迎されていた向きも否定できない。社会の枠に填る事無く自分の意思で職種も機関も選んで働き、一定期間働いたら自分のために好きな一時期を過ごしたり別の事をする。そんな若者も地方労働者も少なくないからである(勿論、止む無くこの形の就労を余儀なくされている多くの人が居ると思う)
最近、世界の国々で変革を求める声が大きい。時代の変化や社会の変化に、政治・経済・社会等全ての仕組みを対応させる必要を言うのであろう。我が国においても現実の社会が、人間個々の価値観に合わなくなっている事は実に多い。現代社会においては、人がそれぞれの価値観によって権利を取得したり義務を負担するのは、その個人の自由意志に基づいているのだが、良し悪しは兎も角、広範に亘る規制緩和や撤廃はこの個人の価値観を変化させ、自由意志を主張しやすくした。今、日本人の考え方や生き方のトレンドは、急速に個人主義・利己主義に傾いているのだと思う。
話は飛躍するが、この個人主義への変移を我が国の家族制度に当てはめて考えてみる。家族は人間社会の基となるもので、最も小さい社会単位である。これまでこの家族を構成する個人個人が分裂してゆく事を、「核家族化」更には「家族の崩壊・危機」として捉えて来た。しかし、家族の分裂を時代の変化による家族意識の変化として捉える向きもあり、今では危機や崩壊と言った考え方は無くなりつつある。家族や社会に属する事が個々の人生にとって必然ではなくなっているのである。この事は、延長線上にある人間社会の分裂・崩壊を意味している筈であるが、これも時代の変化に拠るものなのであろうか。
このような人の変化に呼応するように法律や制度も変化し、特に社会保障の分野では顕著である。年金・介護保険・後期高齢者医療制度・生活保護等、各種の制度における受給資格などは、個人を対象とするもの、家族(世帯)単位で取り扱われるもの等々まちまちである。なかには居住を共にしていても形式的にでも離婚をすれば、世帯を分離すれば、と確実に核分裂を誘発させているものもある。
国民の意識が個人主義に偏重してゆき、家族や地域社会の分裂を促す政策が推し進められる中、知ってか知らずか「在宅・・」「地域・・」重視はいかにも苦しい。
折りたたむ...いまさらながら医療資源は有限であると思う。我々は、医師をはじめ看護師あるいはリハビリテーション職員の不足に長年悩まされてきた。療養環境を改善するために積極的投資もしてきたし、何とか老人の専門医療の質を向上させるために努力してきたつもりである。
しかし、医療に支払われる費用の総額は、政府の医療費抑制政策をはじめ、安価な費用で高い質と効果を享受できるのではないかという考え方が当然視されているように思えてならない。医療資源が有限なことは、少し考えてみれば理解できるはずであるが、自らが患者や患者の家族でもないという幸福な状態では、誰も医療資源のことを真剣に考えてくれない。
ただ、自らが患者と呼ばれるようになるか、その家族の立場になると「なぜ、いつでも、どこでも、最高の医療が、安く提供されないのか」と疑問や不満を主張することが多い。医療者も正確に対応しているかどうか疑問だが、つい「政府の低医療費政策のせいで」とか「今の医療保険ではここまでが精一杯です」などと言い訳がましいことをいってしまう。
患者さん以上に、医療資源に限界があることを知っている医療者は、医療の無駄や節約可能な部分があることは率直に認めていても、無駄を排除したり、一層節約することに熱心ではないし、そのようなことに努力しても、誰からもほめられない。
医療経済の世界では、あたかも医療者が経済法則により行動しているといわんばかりの議論が展開されることがある。たとえば、薬価差益については、差益が多い薬品が処方されているなどというステレオタイプ議論である。また、出来高払いと包括支払方式では、医療者のビヘービアは、まるで反対になるといったようなこともいわれている。
しかし、いくら医療経済学で分析してもらっても、現在の医療の混乱はどうしようもないのではないかと思う。今、必要なことは、医療資源が有限であることを、改めて国民に理解してもらうことが第一歩だ。
国民の多くは医療費問題が大変なことになっていることは理解できても、何をどのように対応していいのかわからない。救急車を頼まないようにすればいいのか。軽症の受診が多いといわれても、重症かどうかがわからないのである。
したがって、有限な資源という理解とともに、どのような場合にどうすればよいのかというマニュアルと、あまり好きな言葉ではないが「患者教育」が大切であるというのが、次のステップだと思う。「自宅で療養しますか」といって「ハイ」と答えてくれる入院患者さんが多数いるわけでもない。
医療者の努力は、当然であっても、医療資源の分配ということについて、一人ひとりの医療者にはどうすることもできない。ヒト・モノ・カネ・情報のうち、努力すれば改善できる範囲はおのずと限られており、カネの問題は、どうしようもない状態になりつつある。
まず、医療資源をどのように分配するのかといったルールはあるのかないのかということや、力関係がどのように働くのかといったこともよくわからない。しかし、救急医療や産科・小児科が重視されていることは理解できる。
次に、老人医療に対して医療資源をどの程度分配しようとしているのかよくわからない。この分配のパワーバランスは、最終的に政治の判断ということになるのであろう。では、与野党は、どうのように再分配しようとしているのかわからない。
有限な医療資源を老人医療にどの程度分配するのか、各政党は、選挙前に明らかにする義務があると思う。
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