老人医療NEWS第97号 |
我が国は超高齢社会となり、世界で最も高齢化が進んでいる事はご承知の通りです。モデルとなる国はなく、高齢者医療制度を独自に構築する事が必要です。
一方、国は平成二十四年までに介護療養病床の廃止、医療療養病床の削減を発表しています。もし、療養病床がこのまま減少すれば救急病院、一般急性期病院など在院日数が短い病院は転院先がなく、常に後期高齢者で満床になり新たな救急患者の受入れが困難となります。
現在の制度では医療療養病床と介護療養病床から高齢者の病状・介護・生活状況によって適正な入院先を選択出来ます。退院時のリハビリや在宅・施設への移行も高齢者のペースに合わせて調整出来る、素晴らしい制度です。医療が必要なため、特別養護老人ホームあるいは老人保健施設等では受入れ不能な方にも医師や看護師が常駐しているので広範な医療行為と必要に応じ高濃度の看護を提供できます。
このような病床は世界でも類をみないもので、これを廃止し、他の施設にするのは、世界で最も優れた高齢者医療の制度を失う事になります。
更に国は今後十年間で道路事業費に五十九兆円をつぎ込むほか、社会保障費を二、二〇〇億円ずつ毎年、削減していく事を決めました。果たしてこれが世界で最も高齢化に直面した国のとる政策でしょうか。
本年七月三日、四日に日本療養病床協会全国研究会が福岡で開催され、大会長を務めました。今回は療養病床削減の渦中、高齢者に負担増となって跳ね返ってくる問題が後期高齢者医療制度と同様、人知れず実行されつつある事を社会に訴求したいと考えました。山崎拓、飯島夕雁、木村義雄、清水鴻一郎、冨岡勉の国会議員諸氏も駆けつけ、市民フォーラムでは多くの市民と直接対話し、激励をいただきました。数社のマスコミもこの問題について取り上げてくれましたので、今後の協会全体の動きに対してある程度の役割は果たせたと思います。
しかし、本来、私が主張したいのは療養病床を運営する者として、その存続のみに拘っているのではなく、投資を道路から医療福祉にシフトする健全な体制の構築がこの国の将来にとって最優先事項であるという事です。療養病床は現行では最もよく出来た高齢者の受皿ですが財源の確保によって更に高齢者が安心し、国民も老後を託したいと思う仕組みが出来ると思います。
西欧諸国、特に福祉の進んだデンマークでは高齢者や家族のための支援システムがあり、財源は税金で確保されています。先ほど述べたように我が国では道路事業に五十九兆円つぎ込む一方で介護・福祉は家族やボランティアに押し付けようとしています。これでは国民は納得する筈がありません。高度経済成長期の公共事業、道路本位の政策から高齢者にやさしい行政に変えていく事が国の姿勢として求められるのではないでしょうか。
折りたたむ...「医療崩壊」と言う言葉が世間をにぎわせている。現場で日夜努力を重ねている仕事を、簡単に「崩壊」と片付けられるのは不愉快である。そもそも、本来世界に誇るべき日本の医療に満足できない事が国民の不幸の始まりだと思うのだが、国民の意識が医療や福祉に向く事は素直に喜ぼう。しかし、こうした議論の多くが私には場当たりで的外れに見えて仕方がない。
曰く「小児科や産科が不足している」、「勤務医の待遇を改善せよ」、「外国から看護師を雇おう」云々。また、「先進国と比べ日本の医師数や医療費が少ない」と言った話もよく耳にする。しかし、医療職の人数や医療費を他国と比べても何の意味も無い。国家予算に占める医療費の割合について論じるのも無意味である。なぜならば、提供するサービスの質を定めずに、それに要するコストを決めることは不可能であるからだ。その場しのぎの机上の空論が繰り返される度に、医療がゆがんで行く気がする。
例えば医師不足の問題である。どのような医療を提供するかを決めずに医師数を不足とも過剰とも言えるはずがない。医師不足を最も簡単に解決するには、現在の医師数で対応可能な範囲に医療の内容を合わせてしまえばよい。時計の針を五〇年ほど戻して、癌や脳卒中になったら寿命と受け入れるなら医師は余るかもしれない。
もちろんこれは極端な喩えである。一方、現実の日本国民は風邪で大学病院にかかり、いつでもどこでもCTやMRI検査が受けられることを当然とし、地方の中小病院にも世界最高峰の医療を要求する。医療は絶対に安全でなければならず、最近の採血器の問題に代表される正体不明の僅かなリスクも受け入れない。これだけの要求をしてコストをかけないと言うのも、同じく暴論である。
往時は経済大国を自負した日本国民が、どうして医療を論じる時だけ経済効率を無視するのか私には理解できない。誰しも日常の買い物では、求める商品の質と価格を慎重に吟味するはずだ。商品の品質とコストが相関することも皆知っている。しかし、医療に限って日本国民は、一九八〇円の食べ放題で最高級松坂牛を求める様な愚を犯す。あるいは、「一人の命は地球よりも重い」、「医は仁術だからコストを論じるべきではない」、といった甘ったれの精神論に逃避して思考を停止する。
まず必要なのは、我が国の医療のあるべき姿や国民が必要とする医療について、医療の専門家だけでなく国民全体で議論を深めることであろう。フリーアクセスで世界最高峰の医療サービスを提供する現在の日本の医療を突き進めて行くのか、北欧のように医療に一定の制限を設け福祉を充実させるのか、アメリカ式の格差を受け入れるのか、真剣に考える必要がある。もちろん、人材育成を含めたコストや、費用対効果についても正面から議論すべきである。また、あくまで財政優先で議論を進めるならば、予算を削減する結果、即ち、平均寿命や乳児死亡率、地域の医療に与える影響等についても正直に議論しなくてはいけない。
さて、私自身が患者なら、医療費抑制の結果、安い給与で雇われる低能な医師に自分の体を任せるのは遠慮します。相応の対価を支払い、良質な医療と福祉が保障された安心できる社会で生活したいと願います。皆さんはいかがでしょうか。
折りたたむ...かれこれ三十年ほど前、私は毎週郊外の特養老人ホームで入居者の健診をしていた。ある日、何時ものように一人ずつ聴診器を当てながら居室を廻っていたが、両股関節と膝関節が拘縮してベッド上で背中を寝具にもたれ、仏像のように胡座している新顔の老人の所にきた。「如何ですか」と言うと、「わしは百だ。文句あるか」と言われた。
改めてお顔を拝見すると、百年を生き抜いた姿に、風雪に耐えた老松にも似た威厳を感じ、私は慌てて、「いや、何も文句はありません。貴方はもう神様のようなものですから何を言っても構いません。私たちは何でも聞きます」と言った。
本気にそう思って、老人ホームの職員に、あの人の言うことは何でも聞いてあげるようにお願いした。
その後も同じような会話があったが、別に何を訴えるでもなく、私が部屋を出るまでじっと目で追うだけだった。私はこの老翁に毎週会うのが何となく楽しみだった。
この特養ホームには完全に寝たきりの人、大声を出したり、徘徊して夜中に外に出ていく人、長期に拒食している人など様々だったが、入居者と職員の表情は大変明るかった。
私は特養が病院とどう違うか知ってもらおうと、毎週看護婦を二〜三人同道して見学させた。私自身はここに約七年間通う中に老人医療に興味を持つようになった。
現在私の病院には百歳以上の人が常時数人いるが、その人たちがどんな心身状態であっても、私は神々しさを感じる。
超高齢者が増えることを禍とする人も居る。樹齢数百年の古木を神と崇めることはあっても、故老に畏敬の念を抱くことなど荒唐無稽な戯言なのか。
国はお金がないので、「老人だけを御神輿に乗せておくわけにはいかない」そうだ。「ちょっと待ってくれ、若い頃は戦争に駆り出され、仲間は大勢死んだ。生き残って国土復興に懸命に働いたが、いつ御神輿に乗せてもらった?」と言う後期高齢者の声を聞いた。
今の私たちを在らしめてくれた先輩たちに深く感謝して、苦労された彼らが生涯を全うするまでは平穏、安楽に過ごしていただくこと、これが恩人に報いる人の道であろう。
私たちは新しい老人医療を模索して、老人に相応しい医療を追及してきた。そして、無駄な医療を控えることが如何に老人に好ましく、医療費が節減され、本人や家族の満足度が高いかが分かったし、平穏な終末への道も見えていた。
しかし、国はこのような医療を評価せず、医療費が人件費に費やされるのは怪しからんとの言が報じられた。これこそメーカーに連なる為政者の苛立ちの声だろう。療養病床数を削減する真意が垣間見える。
私は韓非子の有名な和氏の璧の物語を思い浮かべる。
昔の中国、楚の国の和という人が山で宝玉の原石を見つけ、時の歴王に献上したが、鑑定人に「石なり」と言われ、たぶらかした罰として左足を斬り落とされた。次代の武王に再度その原石を献じたが、また鑑定人に「石なり」とされ、今度は右足を切断された。次の文王のとき、この石を抱いて三日三晩泣き続け、涙は血になった。これを聞いた文王が原石を磨かせてみると、それは完璧の語源となった見事な宝玉に生れ変わり、「和氏の璧」と称された。
私たちは老人医療に玉を感じて、璧に近づけようとした。しかし、国は老人医療を「石なり」と断じて、磨けるものなら磨いてみろとばかり診療報酬を削減した。療養病床は両足を斬られたも同然である。この後は手を斬られ、最後に首を斬られるのだろうか。
医療環境や職員を大切にし、老人医療が玉へ向かうことを信じて、私は祈りつつ石を磨き続けたい。
折りたたむ...「失礼ですが七十五歳以上ですか」「はい」「四月一日から後期高齢者と呼ばれていますが失礼だと思いませんか」「失礼だ」。
これは、本年四月にテレビ放送された一映像で、場所は巣鴨のじぞう通りだという。後期高齢者医療制度施行に伴う混乱は、なんともやりきれない。十年前から議論を重ね、五年前から老人医療の対象を毎年一歳ずつ引き上げ、平成二十年四月より六十五歳から七十四歳までを前期高齢者、そして七十五歳以上を後期高齢者医療制度にするという「高齢者の医療の確保に関する法律」が国会で成立し、四月実施後から混乱が大きくなった。しかし、「失礼だ」「知らなかった」「もとにもどせ」などとさわいだところで、代案がなければ、ただただ混乱を助長するだけで、何も解消しない。
医療費財源が確保できず、産科や小児科医療が地域でどうにもならないので、何とかしなければならない。そのためには、高齢患者さんも、医療従事者も、そして国民も傷みを伴う改革に合意して欲しい。さもなければ老人医療制度自体を維持できないと小泉政権は主張した。国民の多くは正確に理解していたかどうかは別として、結果として、制度は改正されてしまった。
今になって、なかったことにできるわけでもないと思う。しかし、苦汁の決断によって、やむをえず黙認せざるをえなかった当時と、今回の混乱に対する厚労省の姿勢、そして政治家やマスコミの大衆迎合型無責任体質にやりきれない思いが残る。
七月に入ってテレビ局のワイドショーのディレクターという人から電話連絡があった。「私たちの番組で一方的に後期高齢者医療制度をタタイタが、医者の友人を含めてタタクだけで対案もない報道をするなという批判があるので、何か高齢者医療の明るい話題を提供して欲しい」という内容だ。「タタク」「明るい」というノーテンキな言葉に私は言葉がなかった。
高齢者医療がワイドショーで取り上げられることには意味があると思うが、番組を創る人々が、あまり深く考えず、黒白をはっきりさせる安易な報道には、高齢患者さんもその家族も、そして医療現場で苦労しているスタッフも顔がでない。そんなもんだと割り切ればいいのだと思うが、高齢者医療をバカにしないで欲しいという思いがつのる。
実は、後期高齢者医療制度ばかりではなく、療養病床廃止から診療報酬、そして介護保険制度や生活保護制度まで厚生労働省関係の事柄は、全ておそまつな社会保険庁問題に集約されるかのような状況になっている。こんなことをいうのは変といえば変だが、厚労省は国民の健康と福祉に大きな責任がある以上、きちっと説明し、主張することは主張し、反論することは反論した方がいい。
何人かの国会議員を知っているが「療養病床削減は反対ということでいいですね」という議員が大多数だ。良いか悪いかというより、わが国の高齢者医療を真剣に考え、もっと議論し、ゆるぎない制度を立案することを国会議員にお願いしたいのだ。
KYという言葉は、永田町の流行語のようで「空気が読めない」ということらしいが、空気が読めない政治家は失敗するかもしれないが罪がない。しかし「気持ちが読めない」政治家や官僚そしてマスメディアの人々が、いいたい放題、やりたい放題に高齢者医療制度を「タタク」姿は、いつかは大きなツケとなって高齢患者や医療従事者、そして国民に負担と困難をつきつけるように思えてならない。
高齢者のための、ゆるぎない医療制度を構築し、高齢者医療の専門性を確立し、展開することが全てである。単なる財政対策や短絡的な制度対応では高齢者の専門医療を確保し続けることはできない。その前提は、国民の気持ちをしっかり読む政治だと思う。
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