老人医療NEWS第94号 |
後期高齢者医療制度はまもなく始まる。七十五歳以上になれば病気にかかりやすいし、また治りにくい。すなわち、医療費を莫大に使う集団であることは間違いない。それにつけても最近、現場にいると「胃ろう」が大きく問題視されているように感じる。今元気な人に「自分なら胃ろうをしてまで延命するか」と聞かれれば、確実に九〇%以上が「そうまでして生きたくありません」と答えるだろう。誰だって自分が「寝たきりになって死ぬ」ことは想像したくもないわけである。
しかし、胃ろうをしている人の約九〇%は主に脳血管障害による舌咽神経等の麻痺である。要するに片麻痺と同じような巣症状であり、嚥下がうまくゆかず誤嚥性肺炎になることを防御するための対症療法である。胃ろうは、片麻痺のための短下肢装具や膀胱直腸障害に対する「おむつ」のようなものともいえる。
「胃ろう」を作りながら嚥下訓練して良くなる人もいるが、片麻痺が完全に良くなる人がいないのと同じく、後遺症となる場合の方が多いのは神経障害の常である。
「胃ろうまでして生きたくない」と多くの人がいうものの、いざ重体になれば「なんとかして助けてくれ」という。これが生物体として当然である。「惨めな思いまでして長生きしたくない」と早死を希望する生物体は私の知る限り人間だけである。こういった願望は、人間は特別と考えれば是認できるものの、生物体としては心が病んでいることを意味する。
一昔前までは確実に死んでいた尿毒症の人は、今や人工透析により十分長生きしているが、「人工透析までして生きたくない」と言う人は聞いたことがない。心筋梗塞の人もステントやバイパス手術をして生きながらえているが、「惨めな思いをして」などとは言わない。
同じように障害に対する治療でありながら、「胃ろう」は、偏見のある目で見られているというよりは、かなり感覚的、情緒的というか、ターミナルや延命というキーワードの中に第一に出てくることからすると、どうやら「胃ろう」はスケープゴート、魔女狩り的に、あるいは象徴的に目の敵にされているのであろう。
植物でも栄養と水分を与えられなければ枯れてしまう。栄養や水分も与えずに衰弱させ、老いさらばえた枯木のようなミイラになり、十分なリハビリもされず、四肢が屈曲拘縮したままで死を迎えることが、果たして尊厳ある死といえるのか。一人の人間が死ぬということは、その周りの人々が患者を取り囲み、惜別の情を込めて十分な医療やお世話をした結果であることが望ましい。死生観についても、アメリカのように「神に召されて喜ぶ国民」と「死ねば終わり」と思う国民の差は大きい。
胃ろうの患者は、単に舌咽神経麻痺であるのに「もういいじゃない」と言われては、誠に気の毒であろう。むしろ考えなければいけないのは、年齢を問わず植物状態に継続される人工呼吸器の方ではないか。
折りたたむ...私どもの施設は築後三〇年近くなり、施設や設備の老朽化が目立ち、時代に沿ったアメニティなどに対応するために、施設の全面増改築を数年前から計画していました。そのため、諸先輩の施設や先進施設を参考にし、アメニティ向上のため、いわゆる「個室・ユニットケア」の採用やプライバシーの確保、そして職員の働きやすさなどを目指し設計を進めていました。しかし、介護療養病床の廃止・転換問題で到底そのような工事を行うことは不可能となり、方針の再検討が求められ、建築計画を全面的に見直すことが必要となりました。
更に「姉歯問題」などによる建築基準法の改定はあまりにも厳しく、現実離れしたもので、建築確認がほとんどしてもらえない上に、少しの設計変更でも一から申請のやり直しが求められるようになりました。新基準に則った審査基準もまだ明らかにされていません。改定前には中国の景気による鉄などの高騰や消費税などを例に挙げ、建築を急ぐようにと勧めていた設計士や建築会社も、しばらくは様子を見るように、とのアドバイスで、実際、当地域でも改定後は建築許可がほとんど下りていないようです。
また、具体的に転換・改築を進めている他施設では新たな問題も起きているとのことでした。たとえば消防法では、病院と老健施設の耐火基準等に違いがあり、老健施設への転換には全面耐火構造を要求され、改築ではなく全面建替えを求められたケースもあるそうです。厚労省だけでなく他省庁の管轄と関わる問題も多く、厚労省にはその対応も早急に進めていただきたいものです。
また、老健施設への転換には各種の経過措置や交付金などの転換誘導が図られ、今のところは大きな改造工事を行うことなく転換できるようになっていますが、平成二十四年四月以降は老健の面積基準を満たす必要があり、それまでに増改築もしくは病床削減による対応などが必要となります。その工事には大きな借入も必要となります。更に大きな問題として、転換のための大規模な増改築工事は新たな増収が見込めるものではなく、逆に転換により、施設には一床あたり年間約一〇〇万円の減収が発生します。このことは、仮に交付金が一床につき一〇〇万円あるとしても、突き詰めると転換による減収の一年分の返還を受けるだけにしかならないとも言えます。それも、自分の財布から出していることに他なりません。
これらを鑑みながら、利用者のためにも、施設側にとっても、必要かつ適切な転換等の計画をしっかりと立ててゆかねばなりません。しかし、国の方向性がまだ未確定であり、方針の変更も頻回に行われるため、当施設もどれだけの病床を転換すべきか最終決定できない状況です。
当院では現在百二十床の介護療養病床がありますが、全てを老健施設に一気に転換するのではなく、六〇床を医療療養病床に、六〇床を転換型老健に移行させようと考えています。そして、医療保険に対応した病棟(一般病棟、療養病床)の増築を優先し、既存の設備・建物を介護保険施設(既存老健と転換型老健)として運用し、制度や地域のニーズをみて、時間をかけ最終的な改築を目指してゆこうと考えています。
どちらにしても患者様、利用者様に求められる施設、職員が働きやすい施設を目指したいと考えています。 折りたたむ...最近、『メタボリックシンドローム』という医学辞典にも出ていないカタカナ言葉が目につき、耳にする。この十年ほど、『生活習慣病』という言葉がようやく定着してきたと思っていたら、今度は『メタボリックシンドローム』だ。どうしてこんな言葉が出てきたのかよくわからないが、生活習慣病の一部のようである。以前は、『成人病』と呼ばれていたもので、成人病の行く先が老人病だといわれていた。成人病の多くは心身症だともいわれる。
現代の変化が激しい、スピードの速い世の中で生きていくには、いくら自分一人が気をつけても避けられないように思われる生活習慣病の中で、せめてメタボリックシンドロームだけでも避けてほしいということなのだろう。国からすれば、医療費の削減が目的だ。呼び方は生活習慣病でよいのではないかと思うが、健康のためには間違った生活習慣、とくに食生活を身に付けてしまった結果のメタボリックシンドローム、老人病は、いわば自分がつくったものである。
私自身、四十二歳の時、右の耳下腺癌になり、三度手術をうけた。振り返ってみると、当時、医療の乏しいある漁師町で、ゆりかごから墓場までの健康管理、健康増進のための施設・システムづくりに取り組んでいた。病院をつくった後、町づくりの仕上げに〇歳児から預かれる健康管理の行き届いた保育園と、高齢化地区の福祉のために特別養護老人ホームの建設に同時に取り掛かっていた。あとひと月で完成というとき、手術を受けなければならなくなった。思えば当時、一日二十四時間のところが四十八時間欲しいと思う程、忙しい毎日を送っていた。それがストレスになり、癌を呼び起こしたのだろうと思われる。まさに自分が癌をつくったようなものだ。
その夢も概ね達成でき、二十年間の地域医療福祉活動も施設も地元の方々にゆずり、次は高齢者の医療と福祉の谷間をうめるために、昭和五十五年に医療法人柴田病院を開設した。福祉、つまり、その人の日常生活の中の不自由さを支え、より安楽な明るい日々を送ってもらうこと、を基礎において、その上で医療を提供できる病院をめざした。
入院して一ヶ月二ヶ月、半年と過ごす病院は、医療を受ける場である以前に生活の場となっている。その日々の生活の中で、不満、不安、悲しみ、怒り、ねたみ等のマイナスの感情があるなら、病に打ち勝つための自然治癒力が弱ってしまう。同じ治療を施しても効果は得にくい。若い者は肺炎ではほとんど死なないが老人は死ぬことが多い。これは、老人の自然治癒力の問題である。
しかし、病院での看護・介護が充実していれば、日々を明るく前向きに、小さなものでも目的をもち、少しでも生きがいにつなげることで、プラスの心理状態になり自然治癒力を高めることができる。環境に負けず自らが前向きに考え、気力を強く持つことで病に勝つことができる。自分の生き方をかえ、自分の持つ自然治癒力を高める努力をすることが大切だと思う。
病気のときは勿論、健康なときから日々はっきりした目的をもち、その実現のために努力し、前向きに何物にもとらわれることなく、今日を大切に生きることを勧め、それを支えていく。より健康な、至福に満ちた生活を求めるような生き方を考えていく。そのような目的で私は、四、五千年の歴史をもち今でも各国で研究が進められているインドの伝承医学『アーユルヴェーダ(生命の科学)』を実践したいと今、努力している。アーユルヴェーダは、治療は勿論だが、より健康になるための生き方をきめ細かく教えている予防医学でもある。日々の生き方を変えることで、病を自分で治すことができる。医師はそのお手伝いをするだけだ。
折りたたむ...平成二十年の幕開きは、暗く冷めたいもののように感じる。株価暴落に代表される世界経済の混乱、衆参両院のねじれによる政治的対立、いつまでたっても解消しない年金問題や企業の不祥事、そして医療問題や介護に関する連日の各種報道などをみききしていると、なにか悪い方向に向かっているにちがいないと思う。
老人医療の仲間と会っても、全員あまり元気もないし、なんとなく閉塞感を口にしている人が多い。療養病床に関する出口がみえない議論展開には、夢も希望もなえてしまいがちである。
オリンピックで盛り上る中国や、新大統領の政権交代で南北関係が世界から注視されている韓国の人々は、今の日本を「よぼよぼの老人国」とみているようである。悪口である「小日本人」という言葉が老日本人ということになるのかどうかはわからないが、世界からの日本への関心が急激に低下していることは事実なようだ。
なにも悪気があったわけでもなく、現状を正確に分析した大田弘子経済財政相の「もはや日本の経済は一流と呼ばれる状況ではない」との国会での発言は、あまりにもストレートに日本がおかれている立場を表現している。
このような時代こそ国民生活のセーフティネットである医療や介護がしっかりしないといけないし、将来のために教育や環境という問題に対しても特段の国民的配慮が強く求められなければならないはずである。しかし、国の医療政策や介護に対する行政の姿勢は、医療崩壊に代表される無策状態と財政再建という、できそうもないアドバルーンによる庶民切りすての財政対応により、長年創り上げてきたものを破壊しつづけることになりかねない。まさに「失われた十年」から「失う十年」へと航路を進んでいるとしか思えない。
こんなことを長々と書いていても一向にらちがあかない。どうしたものかと考え続けてもなにも思いつかないが、このような状況が長くなると精神的に病気になりそうである。病は気からというが、経済の専門家の中には景気も気からという人が意外に多い。「マダはモウなり、モウはマダなり」などと株式の世界ではいうが、一国の景気は、国民の気が「ダメ」という方向に向いている時には良くならないらしい。
これが本当なら、国民が「これからが上げ潮だ」と思うと景気が回復するという、なんだか変なことになる。だが、いいえて妙だ。
これから先、人口が減少して、高齢者が増加するのであるから、経済も成長しないかもしれないといわれれば、そうかと思ってしまうが、本当のことはだれもわからない。わが国より先に人口減と高齢社会になった国々の経済が成長していないわけでもない。このことは、老日本だからモウダメということでは、決してないということである。
北欧も西欧も、東欧そしてバルカン半島の中欧と呼ばれる国々も、元気だし、経済発展していることは事実である。こうなると、日本人がダメなのではなく、日本のやり方や仕組がダメなのだということが良くわかるはずである。
老人医療や介護は、とても大切なサービスであり、仕組みであり、国民の一人ひとりが支えるものである。それにもかかわらず、サービス提供するわれわれが、閉塞感に苛まれていては、いけない。リーダーがふてくされていては、職員もやる気をなくしてしまう。
つまり、この閉塞感から脱出するには、まずわれわれが気を取りなおして、元気、やる気、本気にならなければどうにもならない。政治家や官僚が無力になったとしても、われわれが、もう一度、実践者として渾身の力をふりしぼろうではないか。
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