老人医療NEWS第93号 |
多くの高齢者は、何らかの疾病や障害について慢性期医療の恩恵を受けている。急性期は短期間であり、長期間継続する慢性期の状態にある高齢者が実数として増えるのは当然のことである。
高齢者からすると、できればより健康な状態で生きたいと考えるため、まず急性期医療が確実に利用できることが重要である。そして、急性期医療に携わる者は、慢性期の候補者たる患者に的確に対応するために、急性期医療から慢性期医療への患者の流れや、慢性期における生活の状況をイメージしながら医療を提供することが求められる。このことから、できるだけ多くの医療関係者が慢性期医療を経験することが望ましく、それはちょうど、専門医がへき地の医療を経験することによって、専門的医療の一層の高度化や目的の明確化につながるのと同じといえよう。また、地域固有のシステムとして、急性期医療がその本来の役割を果たし、慢性期医療に確実につなげられるようにすることも必要である。
だからこそ、急性期医療の担い手であり、医師をはじめとする医療人養成の拠点でもある大学病院は、慢性期医療も視野に入れた医療提供のモデルとなることが求められている。
一方、医師不足、看護師不足、助産師不足等が指摘されるなかでは、限られた医療資源の適正配置を考えることに加えて、保健医療福祉サービスに関する専門家のモチベーションを高めていくことも欠かせない。他の先進諸国からみて、わが国の専門家のモチベーションは処遇の悪さに比べて際だって高いという。このようなモチベーションの高さは誇りうるものであるが、支援がないままいつまでも奮闘を求めるのでは厳しすぎる。
国民の価値観の変化にも留意が必要である。たとえば、人がいつかは死ぬことは誰でも知っている。だからこそ一日一日を大切にしたいし、良い人生を歩みたいと思う。中でも自分の人生が終幕に近くなっていることを最も自覚しているのは高齢者である。できればその終幕がつらくないものであってほしいからこそ「ピンピンコロリ」というような言葉も日常用語になった。
しかし、考え直してみると、自分自身にとっても周囲にとっても納得できる別れがあってよいし、そのためには準備の時間も必要であると思われるので、「ピンピンコロリ」では少し寂しいような気もしてくる。
改めて考えてみれば、これからは「よい人生を送ること」(Live a good life)だけではなく「よい晩年を過ごすこと」(Die a good death)が大切であり、医療関係者は専門家として、また自分自身が死にゆく人として、それに向けて何をすべきかを考えることが求められるのではないか。
折りたたむ...来年四月で消失する特殊疾患療養病棟の院長回診の中で、「病状は、落ち着いています」という言葉を聞く。おそらくこの状態を「医療区分1」と称し、「在宅あるいは施設などへの退院も可能」と判定されているのだと思う。しかし、この方々のケアプランをよく見てみると、以下のような細やかなケアが要求されている。
「認知症の末期、重度の寝たきり状態。毎回の食事摂取時は、リクライニング車椅子にて離床。意識状態及び意欲をその都度確認し、嚥下状態が悪い時には、経口摂取を止め、経管栄養を行う」
「慢性心不全あり。容易に悪化しやすいので、日々、浮腫、呼吸状態、尿量と水分出納、酸素飽和度をチェックし、酸素投与の有無を検討し、医師への報告を行う」
「超高齢者。胃食道逆流により、誤嚥性肺炎を起こしやすい。経管栄養は、半固形とし、注入前には、胃内容物の確認。○以上だと経管栄養中止し、医師へ報告。注入時は、ベッドを三〇度にし、注入後一時間程度は、ベッドを上げておき、その後、下ろす」
医師の指示はもちろんであるが、看護介護の日々の細やかな観察とケア、そしてその連携によって、この方々は、発熱もせず、酸素の投与も避けることができ、安定しているのである。医療的にぎりぎりで生活されている方が、「肺炎」や「尿路感染」「嘔吐」「脱水」などを起こさないように医療やケアをマネジメントすることが、「慢性期の医療の目的」にも関わらず、評価の対象となる「医療区分」は『元々元気な方が、重度の疾患に罹り、一気に濃厚な治療をして落ち着いたら退院する』という、急性期型医療の視点から作られていると感じるのは私だけだろうか。
例えば、喀痰吸引一つをとっても、「一日八回以上の方」は、確かに看護師の手を濃厚に必要とするが、たとえ六回であっても、その吸引が「その方の状況に応じて、適宜必要」となると、訪問看護などのスポットの手では間に合わない。当院の状況を見てみると、吸引が頻回に必要な方は八回などではなく、一勤務帯で五回から六回、一日一五回にもなる。それ以下の方は、通常一日五回から六回に状況に応じて追加、日によっては、一〇回程度となる。人間の身体は、スケジュール通りにはいかない。この「不安定性」こそが、在宅や施設介護のネックになっている。
また、現実的には、「在宅で看られる医療レベル」と「施設で看られる医療レベル」は異なる。通常は、「在宅」のほうが「施設」より軽度の方しか看られないように思われるが、実際には、「在宅」は、家族または介護者が看ているという点で、素人ではあっても細やかに目が行き届くが、「施設」では、医療や介護に対する要求水準が高い上に、老健の夜間ともなれば、ナース一人で百名の高齢者を看なければならない現状がある。「経管栄養」も在宅では、ご家族が行う事ができるが、施設では医療行為は介護職員に許されず、少ない看護職員の業務となる。「在宅で看られるレベル」は、多くは家族の介護力に依存し、単に医療や介護のレベルだけでは、在宅復帰は語れない。
高齢者が安心して生活できるためには、医療の支えが必要である。「お金がない」という理由から医療費を削ろうとする国で、安心して生活できるだろうか。診療報酬改定まであと少し、国民が安心して老いることのできる国づくりを期待したい。
折りたたむ...二〇〇七年九月十五日、第五回 日本医療BSC研究学会年次学術集会が、当法人理事長秋野豊明大会長の下、開催された。シンポジウムは、「コラボレーション」をテーマに三人のシンポジストが熱弁をふるった。今回はその中のお一人、森重隆氏のお話の中から印象に残ったものを御紹介したい。
森重隆氏は、明治大学卒業後に新日鉄釜石(現 釜石シーウェイブス)に入社し、昭和五十四年から昭和六〇年までのV7を含む通算八度のラグビー日本一に輝いた原動力となり、主将・監督として活躍され、松尾雄治氏と共に新日鉄釜石の黄金時代を築かれた。またラグビー日本代表チームの主将も務められた。
現役時代のポジションはセンターバックで、スポーツ選手としては小柄であったが、プレーは誰よりも熱く、小さな体での強烈なタックルを身上とする一方、緻密なゲームを組み立てる理論家でもあった。また監督としての手腕は高く、チーム作りの目標は「十五人全員で同時にタックルを仕掛けること」であった。
現在は、福岡市で森硝子店を経営するかたわら、母校の福岡県立福岡高等学校の監督、日本ラグビーフットボール協会理事、福岡市教育委員も務められている。
以下、森氏の発言から印象に残ったものをまとめてみた。
以上であるが、「医療崩壊」どころか「日本崩壊」の真っ只中にいて、西円山病院という一つの組織のリーダーとなって一〇年目となった現時点において、自分はスタッフのために真に存在価値のあるリーダーなのかどうか、考えさせられる森氏の講演であった。
折しも、昨年九月二十六日小泉「構造改革」を継承し、「戦後レジームからの脱却」と、訳のわからない「美しい国づくり」を旗印に、日本のトップリーダーとして登場した安倍晋三首相が、二〇〇七年九月十二日に突如として日本国と国民を投げ出し、辞意を表明した。ちょうど三六五日で総辞職となった。無責任極まりない話である。それでもなお安倍氏は、議員を辞めないらしい。このような事が国会で問題にならないのであれば、私の個人的問題どころか、日本の明日も本当に憂慮される今日この頃ではないだろうか。
折りたたむ...二〇〇八年度診療報酬改定は、どうやらマイナスにはならないようだ。ただ、こと高齢者の医療については、雲行きが怪しい。特に、後期高齢者医療については、
1の計画的入院医療とは、地域の主治医から新規入院する患者さんの病歴や薬歴情報の提供がなされ、入院中には診療計画を作成して治療を進め、退院計画に基づき入院前の主治医と連携し、退院後は主治医が引き続き治療を進める。このような地域連携退院時共同指導料については、従来は医師、看護師のみであったが、新たに歯科医師や薬局薬剤師が、共同指導に参加した場合も評価することになっているらしい。
2の入院中の評価というのは、退院が困難な患者さんに対して看護師や社会福祉士が要因を把握し、地域の主治医や訪問看護ステーションへの連絡などを通して退院支援計画に基づいて評価するとともに、薬剤師や管理栄養士なども総動員してまで退院に結びつけようとするものである。しかし、退院困難な患者さんに対して多くのアプローチをしても、帰れない場合が少なくない現実に対して、この程度のことでは何も期待できないと思う。
3の退院前後の支援とは、主に主治医の役割に期待している。つまり、主治医は、日頃から患者さんの病歴や他の医療機関の受診状況等を集約し把握するとともに、認知機能を含めた総合的アセスメントと生活指導を進めることが求められている。そして、専門的な治療が必要な場合は、適切な医療機関に紹介し、治療内容を共有することが大切で、退院の支援も主治医が重要という考え方である。
この程度のことを、今さら診療報酬に点数化したところで、何か影響があるのかと疑問に思う。在宅ケアを充実することには賛成であるし、社会福祉士や管理栄養士、薬剤師、歯科医師の活用も大変重要であるが、これらの取り組みは、われわれが中心となって進めてきたことで、なにもめずらしくもない。
ただ、どんなに医療サイドが努力しても、退院が困難な後期高齢者と呼ばれる患者さんが少なくない現実はどうにもならないと思う。
もっと本音でいってしまえば、後期高齢者の療養病床への入院や一般病床での長期入院は、金がかかりすぎて対応できないので、なんとか早期退院させる方向にしたい。どうしても長期になるのであれば介護保険施設を利用して欲しいし、なんとか在宅で安上がりに済ませる方法も考えるべきだ。また、終末期医療についても、施設より在宅、医療より介護で対応させて安上がりにしないと、国の財政は成り立たないというのが、国の考え方であろう。
とはいっても、国が思う程そう簡単なことではない。自宅で家族にみとられ大往生。もちろん、それを望む人々も多いだろう。
しかしだ。そうはいかなくなってしまった世の中を後期高齢者医療制度で何とかできるのだろうか。
最近の診療報酬議論では、もはや高齢の入院患者の長期入院は不必要であるかのように無視されていると思えてならない。在宅ケアでは無理。介護保険施設では対応できない。急性期病院からは追い出される。回復期リハビリテーション病院で努力したが、結局は帰れない、といった入院患者さんは、いったいどこに行くのだろうか。医療が必要な長期入院高齢患者さんは、一五万床の医療療養病床に殺到するのであろうか。
結局、無策を露呈しているだけだ。
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