老人医療NEWS第89号 |
「人は死すべきものである」ことに、世の中の人々はやっと気づき始めた。必ず死ぬものなら、人間らしく死にたいと願うようになった。
今までの医療は、患者さんを「必ず回復させて生産現場に戻す」ということだった。それ故受け持ち患者さんが死亡することは医師の敗北であると考え、一分一秒でも長生きするようにその医術を駆使した。
しかし、これからの医療は「治らないことを前提に、なるべく本人が自立しながら死を迎える」ということも考えなくてはならない。
古来より、食事摂取が不可能になった時点が自然死の時であったが、中心静脈栄養が考案され、経口摂取ができなくても十分長生きできるようになった。微量の栄養素も人体には必要であるとのことで、胃ろうからの栄養補給が当たり前になった。これら医学の進歩により、スパゲッティ症候群と揶揄される、人間の尊厳を無視した単なる延命処置が施されてきた。
脳出血後に例え一命を取り留めても、一昔前まではせいぜい数ヶ月の自宅介護で人生を終えた。しかし、現在では脳卒中後の寝たきり患者さんでも、数年間存命することは当たり前の時代になってきた。
過日新聞にこのような記事が出ていた。脳出血後に寝たきり介護状態になった六〇歳の男性が家族から介護を放棄され、死亡した。それを放置した六三歳の妻と成人した二人の息子が官憲により逮捕された。三ヶ月間も自宅に死体を放置し、一部は白骨化していた由で、この家族が人道上厳しく糾弾されることに反対する人は皆無であろう。しかし、介護放棄事件に対して官憲による逮捕が妥当であるかどうか考えさせられた。
小生の親しい友人がしみじみと述懐していた。友人が敬愛する彼の父上は医師としても経営者としても卓越した人物で、七〇歳代頃までは子息に「俺がぼけはじめたら言ってくれよ。いつでも理事長職を交代するから」と何回も話した由である。しかし、八〇歳代になり医療外部環境が悪化すると、おろおろするだけで理事長職を手放す決断もできなくなって、病院経営では大変な苦労をしたようである。
リビングウィル(生前の意思決定)は、病気になってからでは遅いのである。
自然死の決断は、理事長職交替以上の大変大きなストレスを伴うものと推測される。どうも八〇代では、体力が減退するだけでなく、頭脳活動も大きく減退し、大きなストレスを伴う決断は不可能になるのであろう。それ故、大往生の一〇年以上も前にあたる七〇代に自然死を決定し、それを自分で表明する必要がある。
医療現場の医師は日々大往生問題に悩んでいる。自然死・延命治療・家族の要望・自然死を選択した場合の官憲の介入など様々な問題に翻弄され、純真な医師ほど日常診療の場で悩んでいる。
このような状況を打破するために、一刻も早く「国による自然死のガイドライン」を実現してもらいたい。
折りたたむ...自分で「食べる」ことができるのを最高として、「介助して食べさせる」から「チューブ栄養」さらには「中心静脈栄養」まで、「食」と栄養は病人にとっても病院にとっても大きな問題である。療養病床では胃ろう(PEGペグ)を利用しているところが増加している。栄養ルートとして腸管を利用するので免疫機能が保持できること、栄養バランスが良いこと等利点も多いが、入れ替えの時点でアクシデントが多いことはよく知られている。最近では在宅療養で家族がそのアシスタントを務めるとなると派生する合併症が多いのも事実である。
当院は五九六床の病院であるが、常食を摂取できる患者は約二五%にすぎず、三〇%未満がきざみ食を含めた軟菜食である。経管栄養はなんと四五%に達している。当院でも胃ろう、腸ろう、経皮経食道胃ろう、経鼻胃チューブによる投与法が行われているが、ペグによるものが最も多く七五%、約二〇〇名で、胃チューブそのほかは二五%である。病棟別にみると、重症度が高い医療病棟で七二%前後と最も多く、介護病棟で三七%、回復期病棟では二九%であった。
ペグの作成は他病院にお願いしているので、当院では適応までのICだけをとれば良く、費用面でも持ち出しがなく助かっている。ペグは作成時期と作成病院の違いによってバルーン型、バンパー型が混在しているが、それぞれにタイプによって特徴と欠点がある。たとえばバルーンでは注入水が少なくなると脱落しやすくなる。そのほか、自己抜去も多い。脱落に伴う入れ替え事故をはじめ、スキンケアは清拭やガーゼ不用といっても何かと問題は少なくない。肉芽の焼灼も硝酸銀棒が入手困難で苦労している。逆流性食道炎や嚥下性肺炎などの問題もある。入れ替えを安全確実に行うには内視鏡を併用するかレントゲン撮影がよいがベッドサイドで行うと意外に難しい。空気や注入水の音を聴診器で聞くのは不確実で、腹腔内に入っても識別困難である。ペグ交換は一ないし三ヶ月とされている。理想的には内視鏡による方法がよかろうと思うが二〇〇名もいれば現実的ではない。腹腔内に誤挿入するよりは、まずは一晩待ってなれたスタッフに任せるのが安全である。
栄養管理の面から見るとペグ群では、経口群よりも血清アルブミンがよく保たれている。体重も経口群でより低い。だから栄養管理にペグは欠かせないと思う。使用する栄養剤は薬価収載されたものを使用しているが、セット加算がないものもあるので注意が必要であろう。
また、大部分は一ミリリットルあたり一キロカロリー以上の高濃度食品を使用しているので保険適応外であり食料費として負担をお願いしているのが現状である。反対に在宅の場合は保険薬価収載されたものをなるべく使用する方が良かろうと思うが、実際には保険適応品は種類が多くないので、そのあたりも制度上の矛盾を感じている。
注入水の追加を行うのに介護福祉士等が介助し、点滴速度を調整すると違法医療行為とされる場合があるので注意が必要である。濃厚栄養剤の点滴速度と注入水の速度は当然異なるので調整が必要、実情を知らない医療行政担当者には理解できないのかもしれない。小さいことであるが負の波及効果は大きい。
折りたたむ...療養病床再編政策の柱であり、多くの問題点と欠陥を内包した「医療区分」、「ADL区分」の導入から約八ヶ月が経過した。
幸いにして当院は、医療療養病床のほぼ一〇〇%が、医療区分三および二の患者で占められてきた。財政面でも、本年一月の全診療報酬実績において、入院患者一人当たり平均単価の増加と外来、通所リハビリテーションの増収もあり、前年同月を上まわっている。医療療養病床は、三月一日から六床増床で、四一床(介護療養病床は六床減で計九〇床)となった。
病院は安定期に入ったようにみえるが、当然課題が存在する。現在筆者には、表題に書かれたような、いくつかの顔がある。管理職(経営陣の一員)と現場の医師という両方の立場に立つと、様々な視点から、問題点がみえてくる。
まず地域医療連携室の運営である。入院待機患者は計十五名で、大半は「要介護度五または四、しかし医療区分一」である。同様の紹介患者の増加と待機期間の長期化は、切実な問題である。介護難民の問題はすぐそこにある。そして今日も、病棟師長、MSWとともに、入院患者の優先順位や病棟間の移動患者の選定に頭を悩ませている。
病棟の変化も顕著である。筆者はまさに、「医療の質の確保と採算性の両立」を要求される立場にある。医療区分が少しでも高い患者を治療してゆかねばならない。個々の業務量は増加し、また患者の状態の変化に応じて毎日医療区分、ADL区分を確認して、診療報酬を算定してゆく作業があらたに加わっている。これは極めて煩雑で、非合理的な方法である。筆者も事務部、看護部とともに、診療内容、医療区分の確認と病名のチェックに、膨大な時間と労力を費やしてきた。診療報酬改定後も、医療保険療養病床のレセプト返戻は一件もない。この点は正当な評価がなされていると考えられ、苦労が報われている。現場での努力が具体的に数字で評価されているという実感は、むしろ以前より強い。しかし、医療療養病床にあって、包括医療と欠陥のある医療区分、そして限られたスタッフの中で、今後も医療の質と採算性を両立することは、必ずしも容易でない。
筆者は、今年で卒後二五年目の(元)外科医である。高齢者医療を志し、当院に着任後丸四年が経過した。この間、自分自身の業務は、実に多様化してきているが、医師である以上は現場が主戦場である。病棟では、中心静脈カテーテルの留置が増加した。やはり鎖骨下静脈穿刺は緊張する。補液、PEG、気管切開の管理、チューブ交換、外科疾患、皮膚疾患の処置も多い。肺炎、尿路感染、脱水のない日はない。診療内容はほとんど急性期病院と変わらない。そして老人医療の特殊性が加わる。高齢者は、合併疾患も家族背景も複雑である。終末期の対応では、一層質の向上が求められる。「DNR」といっても、病態は様々である。現在の医療療養病床は、まさに『急性期病院+α』で「αは限りなく大」である。会議、カンファランスの出席も増える一方である。
蛇足だが、計三校で看護学校の講義を担当している。最初は病理学全般と生理学の一部であったが、今年から、解剖生理学と成人健康障害論の分担が加わった。最近は、時期がくると必ず「国家試験対策」の補講も依頼される。いつのまにか、作成したスライドは千枚を超えた。時折、若い人(特に女性を想定)の前で話をすることは、一服の清涼剤になり、自分自身の勉強にもなる。全国学会の発表はまだ二回、講演や執筆の依頼も、できるだけ引き受けるようにしている。大きな充実感、満足感があり、色々な立場から、老人の専門医療に取り組むことが出来る境遇に感謝しているこの頃である。
折りたたむ...後期高齢者医療制度の準備が進んでいるらしい。具体的な内容が示されているわけではないが、医療関係団体のほとんどが反対意見を表明しているにもかかわらず、なにがなんでも制度化するのであろう。
在宅医療、訪問看護の充実、かかりつけ医の体制強化、終末期医療の検討などといったことが、強調されているが、それぞれ課題を真剣に考えれば考えるほど、何も解消できない可能性もある。
厚労省では、高齢者向けの診療報酬が検討されているというものの、方針も、方向も不明確で、たたき台さえないのではないかと考えざるをえない。どうしても制度化するのであれば、老人医療に対する考え方や、ビジョンを国民に明確に示した上で、診療報酬上の議論をオープンに、そして広範に進めるべきであろう。密室での作業を続け、短期間のうちにパブリックコメントを求め、そして正味一ヶ月間しか医療機関に与えず、改定してしまうということをさせてはいけないと思う。
後期高齢者に対する医療をどのように考え、どのような仕組みで、国民に提供するのかといったことは、わが国の医療や福祉分野のみの問題ではなく、わが国が後期高齢者の一人ひとりをどのように考え、どのようにあつかうのかといったことを意味する。もちろん、医療経済的な問題は重要であるし、資源に限界があることは十分に理解している。ただ、この国のかたちが問われているのだという認識を前提に議論しない限り大混乱が生じるのではないか。
高齢者の医療問題は、高齢社会を体験している国では、どこでも大きな社会問題である。こうした各国が各種の対応を進めているが、決め手となる解決法があるわけではない。
まして、どこの国も経験したことのない超高齢社会に向かっているわが国の選択は、それこそ世界の関心事なのだ。
わが国の診療報酬は、長い歴史があり、いろいろな問題もあったが、制度としては定着しているといっていい。ただ、二年ごとの改定でコロコロ変わるために、十年前と比較してみると、何が何だかわからなくなっている。特に、医療費抑制のために無理に導入した姑息な点数は、短かければ一年未満、長くても十年で姿を消している。
かかりつけ医というと、英国の登録医とか合衆国の家庭医というものが連想されるが、よく調べてみると国によって制度の差が大きい。しかし、かかりつけ医の機能とか役割はおのずと類似しているように考えられる。
わが国では、外来総合診療料という制度が一時期導入されたものの、結局制度として定着しなかった歴史がある。もう一度、同じようなものを制度化する可能性が高いが、はたして過去の教訓が生かされるのであろうか。
もし、かかりつけ医の診療報酬を検討するのであれば、後期高齢者には必ず「かかりつけ医」を決めてもらうことと、定額化するのであれば、一定内の薬剤も包括化した方がよいと思う。もちろん、生命維持のための必要不可欠な医薬品についてはこの限りではない。
もうひとつの課題は、かかりつけ医は、高齢者医療についての生涯教育を受けることが必要であるということを明確にして欲しい。急性期医療と高齢者医療とは、当然同じ部分もあるが、実は細部については、考え方自体が根本的にちがう。
延命のみを追い続けるのでもなく、さりとて粗診粗療でいいというものでもない。老いの生活に寄り添う「尊厳と安心を創造する医療」であって欲しい。このことは、当会の理念であり、わが国の後期高齢者医療のミッションであると思う。
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