老人医療NEWS第87号 |
「今後急速に進むであろう高齢化社会の中で、老人病院の果たす役割と専門性を考え、我が国における理想的な老人医療のあり方を追求し、全ての老人が安心してより良い医療を受けられる環境を実現させることにある」これは規約第四条の当会の目的である。一方、関連団体の日本療養病床協会会則の目的や事業内容は、「療養病床等の医療施設の向上発展と使命遂行を図り・・・、管理運営の適正化や、経営に関する調査・研究、関係団体との連絡協議を主な事業とする」となっている。
老人の専門医療を考える会は、日本療養病床協会設立の時、一団体に統合するか、別の会として残すかの議論があったが、結果的に役割と目的を異にする二つの団体として存続させる事になった経緯がある。前者は、会員の資質の向上を企図した事業を行い、学術的活動や広報事業を通じ、事業に対する国民の理解が得られるよう努める団体。そして後者は、学術団体としての活動を展開しながらも、その経営向上に役立つ組織としての政策を立案し、政策提言・経営支援を目指し、行政や政治家に対し自己の政策の実現に向け努力する団体だと認識している。
団体が自己の政策を主張し、実現するには少なくとも二つある。第一は、政策を立案する行政と協働しながらその過程で提言してゆく。そして第二は、それを決定する政治家を動かす事である。何れにせよ国民に理解されるしっかりとした理念と理論武装が必要であり、政治家や政党にとって利のある行動と政策を明示してゆく必要もある。
しかし、そもそも政治家への働きかけの有効性は著しく減退した。何より保守政治の構造が最も変わったことに気付かなければならない。自民党に献金を続けてきた銀行業界、選挙の資金と人手を請け負ってきた建設業界、集票の基礎となった農業界でさえ構造改革の矛先は鈍らない時代である。ましてや現在の医療界に政治家を利する何が備わっているのだろうか。あるとすれば国民の支持を得やすい立場だけなのである。
確かに、今進められている規制緩和・市場原理主義の政策は、現在の我々を苦しめている。適正な規制の撤廃や競争原理が必要な事は良く分るが、ひたすら効率化や利潤追求型に変革させる潮流がそこにはある。
しかし一方、意欲と能力のある経営者の中には、変化を先取りし迅速な適応を積み重ねることにより、医療政策に関する批判や、行政への要望よりも、国民・患者本位を重視した自らの経営を追求して行く姿も見える。民間企業以上に利益指向の経営体質に脱皮するような自己革新を推進する者もいる。
こうした背景から、医療・保険関係団体での活動方針に懐古的な考え方への転換圧力が強まっていると聞く。しかし、こんな時代だからこそ時代錯誤に陥らないよう、会の理念を再確認した目的の実現に向けた活動が期待されているのだと思う。我々にとってこの二つの団体が存在する意義は大きい。
折りたたむ...病室にとじこめない、家にとじこめないことが大事ですと言われて久しいのですが、いろいろな理由から外へ出さないことが最近出てまいりました。外へ出ると風邪をひく、そして肺炎が怖いという家族がいること。病棟では恥ずかしながら食事介助、排泄介助、入浴介助といった三大労務で手一杯で時間がないということを声高に言うスタッフ。その他にも理由はあるでしょうが、主な理由は、大体こんなところでしょう。
また、最近は医療区分の重い方が多くなってきているとか、介護度が高くなってきている点も関係しているかも知れません。二〇年位前の「寝たきり」という言葉が今またやってきた感がします。
その頃「起きないと寝たきりになりますよ」と患者さまに言うと、「起きたって何も楽しいことがない」と言われた事を思い出します。そこで当時、色々なイベントを考えねばならないということになりました。カラオケ療法などは音楽療法のきっかけになりましたし、誕生会やバーベキュー大会なども行われるようになりました。
さて、私は三年程前から千葉県の森林療法プロジェクトに関係しております。森林療法という言葉より森林浴という言葉の方が今では一般化しているかも知れません。
森へ入ると気分爽快になります。それはフィトンチットという物質が私達の身体に作用するためだと説明されております。森に入ると香りが漂っていることを感ずると思いますが、これがフィトンチットの香りです。ロシア語でフィトンは植物を現し、チッドは殺すを意味します。この成分は一般的にはテルペン類が入っています。一寸前まで話題となったマイナスイオンが絡んでいるかも知れません。
●森林へ行ってみたら
本院の裏には約二千坪の庭があり、半分は杉・ヒノキの林になっています。この森林へ患者様をお連れして、どんな変化が出るかを検証しました。
一回四〇分程度で十二回、認知症の方々にプログラムに参加していただきました。結果は良く眠れるという今まで言われていること以外に、運動や認知的な点を森林療法の実施前後でチェックしました。その結果、知的興味のアップが認められました。
また、森のにおいということで、輪切りにした切り株や木のクズを刺激材料として用います。プログラムの終わりには、この木を持って病棟の同じ部屋の皆に見せるという方も多くなりました。社会的関係が出てきたと思います。
それから、竹を半分に割って水を通し、笹舟を流すこともしてみました。この時、笹舟に赤い花を乗せるときれいだねと、工夫もみられるようになってまいりました。
高齢男性の方では、病棟では受身的というより何もしない方が、焚き火をした際、小枝を拾って火にくべたりして、奥様がびっくりされていました。
この方にはエピソードがあります。プログラムの最後に、私達より早めに病棟へ帰られましたが、途中で戻って来られ、小さな声でどうもありがとうございますと、丁寧に言われたのです。焚き火を通して物理的な暖かさだけでなく、精神的な暖かさのコミュニケーションのひと時でした。
今後は近くの里山へと足を伸ばすことも考えている、今日この頃でございます。
折りたたむ...「全人的な医療」、「自立支援を目指す医療」というものを、急性期医療の世界の中で行うのはなかなか難しい。まずは疾病を治すことが優先であるからである。そして短縮しなければならない平均在院日数。医療事故に対するケア等々。忙しい時間の中で、とても患者さんの全体像を把握する余裕などない。もしあったとしても僅かである。そういう意味では慢性期医療を担ってきた療養病床の果たす役割は大きい。
この二十年と言っても良いと思うが、老人に対する医療の質は格段に向上した。薬漬け、点滴漬け、寝かせきりの医療は少なくなり、その人その人にあわせた医療が行われるようになってきたのは事実である。そして、老人ばかりでなく、障害を持った方々が、自立して生きようと言う意識を持てるよう努力してきた。
その結果、リハビリの世界は急激な進歩を遂げ、介護職や医療ソーシャルワーカーという専門職も定着し、成長して来ることが出来た。これらの流れは、老人の専門医療を考える会、日本療養病床協会の働きと共に、行政における利益誘導等の強力なバックアップがあったからこそであると感謝しているところである。
しかし、その行政が今回、医療区分という考え方を導入した。医療区分の低い方は医療を必要としないのだから病院に居る必要はないだろうという考え方とともに、これまで慢性期医療を担ってきた療養病床は削減して行こうという方向性に変わった。
「医療とは、病気を治すだけでなく、元気にしてこそなんぼ(いくら)」「病気がよくなっても、病院にいる患者さん達の顔を見てご覧。みんな病気の顔をして心配そうに生きている」「あれじゃ、まるで病人をつくっているだけじゃないか」「活き活きと元気に生きてもらってこそ、医療だ」と言ってきた。
幸いにして、我々の施設に入院している方、通っておられる方々が、元気になっていることは、確かである。「元気」というものは「元々の気、その人その人が元々持っている気」と書く。その元気を引き出す手伝いをすることは出来ても、その人その人が、それを呼び水として元気になっていくしかない。
しかし、この元気というものを、どう評価しそれをデータにどう表すか。それは難しい世界である。そのため、行政もそんな曖昧な世界には報酬はつけられないということなのだろう。
では、これまで我々が行ってきた「全人的医療」「自立支援」など、実際には目に見えない心の部分が多い医療は、これからどうなるのだろう。このままでは、我々が目指してきた医療は、無くなってしまうのではなかろうか。
いや、そんなことはない。幸いにして行政のお陰でここまで来ることが出来たのである。我々が自立するまで、こうして行政がサポートしてきてくれたのである。その間に、いろんな人間が育ってきた。より質の高い支援を目指せるところまで来たのである。
これからは、我々自身が自立し、本当に老人のための、障害者のための、そして病んでいる人達のための医療を確立していくことが大切なのだと思う。経済的には確かに苦しい部分もあるだろう。しかしながら、我々が、やりたいと思った医療、やってきた医療、すなわち全人的な、自立をサポートする医療は、現在、いろいろな方々に受け入れられている。
我々の行っている医療にはなによりもニーズがある。ニーズがある以上、この仕事は必ずやうまく行くのである。報酬もそのうち付いてくることであろう。諦めず、一歩一歩、この道を歩んで行きたいと思っている。
折りたたむ...二〇〇六年の診療報酬・介護報酬同時改定のキーワードは、なんといっても「在宅」と「連携」であると思う。診療報酬上の在宅療養支援診療所と地域連携パスの新設点数、介護報酬の在宅中重度者への高い評価はその特色であるといえる。また、リハビリテーションの再評価は、急性期、回復期、維持期の流れを前提に、施設と在宅、医療と介護を包括的に、連続的にとらえ、地域ケアへの明確な視点を示した。
このように、病院と診療所の連携ということから、病診介護連携へと発展する基盤が提供されたと考えることができる。今後は、地域で実践可能な有効で網羅的システムをいかに構築するかが大きな課題となっている。
在宅ケアの中核となる在宅療養支援診療所は、既に一万か所を超え、さらに増加する傾向にある。地域医療という観点からも、在宅療養を推進するということからも、歓迎することができる。老人の専門医療の確立という立場からは、単に在宅ケアが進むという側面ばかりではなく、医療そのものが変容する可能性を含んでいるという点で注意深く吟味することも必要であろう。
在宅療養支援診療所の点数算定については、本年三月末の時点において「特定施設利用者への算定は不可」ということであった。その後の日本医師会の強力な巻き返しで、七月以降算定することが可能になったという経過がある。このことの衝撃は予想以上であった。流れは特定施設化に向かい、居住系介護保険サービスは医療のいわゆる外付け議論に発展した。
考えるまでもなく、特養も特定施設も医療は完全に外付けで、老健施設では一部が外付け、変な言い方だが、療養病床は病院なので、そもそも医療行為を行う場として、全ての医療が内付けというのであろうか。
介護療養型医療施設が廃止されれば、医療が完全に内付けの施設は介護保険サービスにはなくなる。老健施設の医療も特養と同様に外付けにすることはそれほど難しくない。もしこのようなことが可能になれば、グループホームや特定施設との共通点は多くなるはずである。
このことが在宅療養支援診療所設立の目的であったとは考えられないが、特定施設利用者への算定がこのような方向性を加速させることになったといってもよい。
このような流れは、あたかも必要必然であるかのように議論されるようになったが、われわれ医療人は、これまでどちらかというと入院医療を中心に考えすぎてきたのであろう。あまりにも低額な在宅医療に対する評価であったこともあり、在宅医療をメインとすることができなかったと言い訳することも可能だ。
しかし今後は、在宅療養支援診療所を中心に、高齢者の住む場と医療を追求していくことも必要である。ただし、高齢者に対する医療は、全て外付けというわけにもいかない。少なくとも老人の専門医療を基盤とした外付け医療が保障されることが重要である。つまり、低額でさえあれば質が低くても良いといった医療にならないようにすることが求められる。
その上で、今後の医療のあり方について真剣に考えなければならない状況になっていると思う。医師の中には、診療所の周辺に、高齢者住宅を多数建設するという方向を目指す方々がいる。逆に、療養病床を同一建物内で、特定施設と診療所に区分して対応しようとするケースもある。今後の選択が限られているとはいえ、組み合わせはいろいろである。
いずれにせよ、提供される医療や介護の質が問われることは明らかであり、再度、老人の専門医療を深く考えることが必要な時代になったことは確かであろう。
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