老人医療NEWS第82号 |
昨年末は大きな衝撃に見舞われた。一連の制度改正作業の中で、六年後には介護療養型医療施設が介護保険から無くなる方針が打ち出された。
この二十年近くを振り返ると、私たち会員のほとんどは、老人医療提供の場として、介護力強化病院から療養環境の改善を目指した療養型病床群に移行した。その直後に、介護保険制度が始まり、療養型病床群は報酬制度の異なる医療保険と介護保険に分断された。そして、療養型病床群に移行して十年も経たないうちに、第四次医療法改正で療養病床となるべく選択を迫られた。
この間、私たちは老人の特性に応じた専門医療の実践には一般内科、老年精神科そしてリハビリテーションの三分野が必須の条件であることを提唱し、研鑽を重ねてきた。さらに、障害を持っている老人の残存機能を最大限に生かし、苦痛を与えない医療を展開するために多職種からなるチームケアの必要性を訴え、その具体的手法として、ケアプランのわが国への導入に尽力してきた。
これらの実践を通じて、私たちが学んできたことは老人ケアには医療と介護の両方が必要なこと、そして両者は一体的に提供されてこそ効果を発揮するということだった。
介護保険が始まって、医療療養病床と介護療養病床は、どこが違うのか、入院している老人の状態は同じではないかと迫られた。利用者に問われるならばまだしも、行政からそのことを問い詰められるのは非常に辛かった。それは、まさしく制度の問題であるからだ。
介護療養病床は、老健や特養で医療職の配置が少ないがゆえにケアを継続できない重介護者を定額制の報酬体系の中で診てきたのである。介護保険三施設で平均要介護度が最も高いのは療養病床である。
さらに、介護保険を利用するか、医療保険を選ぶかは利用者の選択に任されている部分もあることを知ってほしい。医療サービスを提供している側がその違いを分からないのであるから、利用する側にとって、その選択基準は無いに等しいのではなかろうか。
ここに来て、別の切り口から、介護保険施設は医療ニーズの低い障害を持つ人たちの居住の場ないし在宅介護支援サービスを提供するものであるとの方針が打ち出された。したがって、医療施設は介護保険の給付にはなじまない、ということであろう。それは、それで良いとしても一つだけ、はっきりさせておかないといけないことがある。ターミナルケアの問題である。
療養病床は老人のターミナルケアを重要な使命の一つと位置付けてきた。行政は、「看取り」というあいまいな用語を避け、老人のターミナルケアは医療なのか介護なのかを国民に明示すべきである。
私たちの、老人医療に対する考え方は、制度に関わらず不変である。ここは、ひるむことなく攻めの姿勢を貫きたい。
折りたたむ...総合診療医の私は、週一回総回診を行っているが、最近とみに入院患者さんの高齢化・超高齢化に気づかされる。
ある日訪れた女性部屋では、六人ともに九十歳を超えていたことがあった。お一人は一〇二歳。お一人はなんと一〇六歳。愁訴以外に、誰もが複数の生活習慣病を抱えている。いや、自覚的な愁訴自体が少なく、入院動機も、「何となく元気がない」との他覚的判断によることも多い。病と老との境の見極めが難しい。もちろん、治癒に至る器質的疾患は往々にしてある。因みに、上記の六人の方々は、全員が程なく軽快退院されており、その喜びは、担当研修医たちの初々しい笑顔に表現されていた。しかし、真の問題はさらに深く、例えば、家庭介護の主力である御長男のお嫁さんの笑みの表情に潜む「本音」への配慮が欠かせない。
大学付属病院に代表される高度専門医療の本質は、生の改善と延長である。一方、地域医療の場合は、死に場所と死に方をも担保しなければならない。
ところで、死には二種類ある。突然死と慢性死である。前者の代表は、二〇〇一年九月十一日の世界貿易センターへのハイジャック旅客機突入による犠牲死である。一方、超高齢化社会の日本人の死は、圧倒的に後者である。ということは、死の準備の時間、人生の終末期に周囲の家族と共にする時間、いわば遺言のための時間はものすごく延びている。
しかるに、先進医療技術が、遺言の機会を奪っている光景にも遭遇する。技術の進歩は、不治を克服すると同時に、不治をごまかしもする。昭和天皇の御臨終にも、インフォームド・コンセントや遺言・辞世の句はなかった。
外来主治医になっている高齢の患者さんから、「先生、具合が悪くなった時、鼻からチューブだけは嫌ですよ。人工呼吸も嫌ですよ。そのために、こうしてかかっているみたいなものですから。先生は忙しくて、おられないことも多いから、救急にかかった時に、若い先生が勝手にいろいろしないように、教育しといてくださいよ。ちゃんとカルテにも書いておいてくださいよ」と言われることは、かなり以前からよくあった。「できるだけ御希望に沿うように頑張ってみましょう。このようにきっちり書いておきますよ」とカルテも見てもらうようにはしてきたが、このようなやり取りは、今後の「説明の医療・情報公開の医療」の展開の中で、一層増えると思われる。「人生の終末期に、うまくもなんともないものをチューブで注がれ、しかも意識のない状態なんていやだ」という死生観も、最大限に尊重されるべきである。国民一億の総経鼻胃管栄養化は、超克の対象であるべきだろう。
二年前に始まった新医師臨床研修制度の下で、初期研修医は、内科、外科、救急・麻酔科、小児科、産婦人科、精神科、地域保健という必須科目の修得に余念がない。その際に、若くて、老や死が生理的に実感しにくい研修医のフットワークと、年長医の熟成した死生観との連携が不可欠に思われる。
折りたたむ...老人医療では益々、在宅・地域リハビリテーションが重視されている。入院から在宅復帰を阻害する問題の一つに障害の受容の難しさがある。医療者と違って、一般の方は「障害=病人」という考え方をしやすい。
たまたま、孫の結婚式に出席するために両側股関節の人工骨頭置換術をした妻の母親が、一人で青森空港から福岡空港経由で来てくれた。長年姑に仕えた謙虚な母親のイメージが強く残っていた妻にとって、八十歳を過ぎて日常生活に軽介助を要するようになったが、急に自分の生活を楽しみ、何所にでもでかけるなど自己主張を強めた母親の態度に少し驚いたらしい。
結婚式も終わり、春にまた来ると言って、雪の弘前に帰っていった後の妻の一言は「年寄りの世話って考えている以上に大変ね。頑固で言うことを聴かないだけでも疲れてしまった。考えると私がケアプランを担当している家族は皆偉いわね」であった。
毎日、リハビリに乗せようとお年寄りとお互いトボケたり誉めたりしながら治療に関わっていると、この程度のことは、日常茶飯事のことで愉快であった。高齢者や障害者との日常生活での関わり方によって、受け取り方が様々な一面である。
高齢者をはじめ障害者の社会参加を考える上でノーマライゼーションが言われて久しいが、この「日常性」が大切だと日頃考えている。しかし、なかなか家族や社会に理解してもらうことは難しい。
リハビリテーションでは、「全人間的復権」の理念のもとに社会復帰を目指しているが、高齢者ばかりでなく、働き盛りの年代の方も一度脳卒中などで倒れて障害を起こすと、人生を終了したかのように隠遁するか、または、リハビリ人生となり社会に背を向けてしまう方があまりにも多く残念である。
社会復帰や社会参加の内容は年齢に応じて様々である。復職や転職など新たなライフスタイルの再構築を積極的に試みる方は問題ない。しかし、リハビリ人生に引き込む原因の一つにリハビリに関わる医療者の対応にもある。回復期だ、やれ維持期リハビリだと治療に熱心過ぎて、社会復帰どころかリハビリ人生に終始させてしまうことがあるので注意が必要である。今更言うまでもないが、リハビリは医学以上に社会学が要求される職域である。
ギリシャ神話の時代から「スフィンクスの謎」のように、四つん這いから二本足歩行、そして杖を必要とする三点歩行となるようにヒトは生涯変化するものである。その他にも、例えば近視や、加齢とともに老眼も多くなる。視力に障害がおきるとスポーツをするにも、車を運転するにも、仕事をするにもメガネがないと不便である。また、足腰が弱ってくると、膝のサポーターやコルセット、杖、シルバーカーなどを利用する方も少なくない。これらは、ライフステージで区切れることなく、知らず知らずに起きてきた障害であるが、結構、不便に応じて器具(補装具や自助具)等を利用して普通に生活している。疾病の後に障害を引きずるのは、その重症度にもよるが、発症過程が問題のようである。
五体満足に人生を全う出来るヒトはどれくらいいるだろうか。大なり小なりの障害を持った人達からも社会が構成されていることを考えると、これがノーマルな社会の構造である。障害の受容は、高齢者や障害者個人の心理的問題だけでなく、周囲の「日常性」における関わりが必要である。老人が三ヶ月以上入院すると在宅復帰が難しくなるのは、周囲の「日常性」の変化のためで、リハビリ病院でも社会復帰の際にみられる現象として「日常性」の喪失に気をつけている。
折りたたむ...平成十八年四月の介護報酬改定は、マイナス〇・五%、十月改定分を含めてマイナス二・四%と公表されている。介護療養については、今回公表の介護報酬の議論以前に、平成二十四年度で廃止、それまでに老健施設や有料老人ホーム、あるいはケアハウスなどの居住系か在宅に転換させるという大方針がある。また、転換するまでの経過型の報酬は公表されていない。さらに、医療保険の療養病床についても、同様に未公表の段階である。
昨年十月改定があまりにもドラスティックで経営的な影響が大きかったが、介護療養の廃止は事業継続の危機である。
医療療養と介護療養双方から医療必要性が高い入院患者を医療保険適用に移行し、逆に医療必要性が低い入院患者は、一旦介護療養病床に移行し、その後、転換か廃止に追い込もうとしている。
現行の療養病床は、入院患者一〇〇人当たり医師三人、これに医療療養で看護職が患者一〇〇人に二〇人に加え、介護職も二〇人、介護療養では看護及び介護とも十七人が最低基準である。
再編成では、まず医療療養が看護及び介護とも二十五人で、入院患者一〇〇人に対して合計五〇人の看護介護職員となる。また、医療必要度が低いとされる経過型介護療養型医療施設については、医師を二人とし、看護を十三人、介護を二十五人とする案が示されている。
このようなラジカルな案を、無理矢理実行するとは、とうてい考えられないが、そこはそれで厚労省は開始時期を遅らせ、各種の激減緩和措置や提案の一部修正により、転換を推し進めるというマジックショーをみせるのであろう。
それにしても、わが療養病床をみるにつけ「この病床がはたして不要なのか」と自問自答し続けるしかないありさまだ。廊下幅も二・七メートル以上もある。もちろん四人部屋でも一床当たり八平方メートル以上あり、平均要介護度は四・二である。急性肺炎も骨折の術後の患者様も、特養や老健施設あるいは急性期病院からの転院も随時引き受けている。昨今は一度断れば紹介患者が激減する。毎日の回診、懸命の看護、機能低下しないためのリハビリテーションも実施している。自分で言うのも何だが、地域の人々から当てにされ、評判も決して悪くない。
老健施設も併設しているが、どう考えても、この病床は病院で、老健施設でいいとは思えない。
ただ「介護療養は他の施設と比較した場合、平均的な療養環境で見劣りする施設が少なくなかったことと、ケアの面でも賞賛されることもなく、特に、介護保険制度創設後の五年間において目に見える改善がなされていないという印象があり、なにしろイメージが悪い」と酷評されると、そんなものかと、反論する元気もでない。
おまけに、医療報酬における慢性期入院医療の評価については、特殊疾患入院施設管理料や超重症児、日常生活障害および認知症加算などを包括化し、医療必要性区分とADL区分による評価を導入するそうだが、本当に実態を反映できる科学的方法論なのか、納得できない。
このような散発的情報しかないが、日本中の療養病床が、一夜にして不安のどん底に突き落とされたのではないかと思う。それにしても、療養病床について議論している人々は、一〇〇とは言わないが五〇病院ぐらいは訪問していただいているのであろうか。とても疑問だ。長年、老人の専門医療を追求してきたわれわれの病院が、不要というのであれば、われわれの存在意義はない。
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