老人医療NEWS第81号 |
リンカーンの言葉にUnity of diversity(多様性の統合)というのがあります。米国では民族の問題でしょうが、よい言葉と思い経営の基本方針としています。多様な制度を活用して効果的な運営ができればと思うからです。
現在、医療法人としては療養型病院およびクリニック、社会福祉法人としては身障施設およびデイサービスセンター、株式会社としては有料老人ホームを運営していますが縦割り行政の中で難儀していることもあります。おしかりをうけるかもしれませんが、もと産婦人科医だったせいか混合診療(妊娠、分娩)に違和感がありませんし、父親が銀行員だったためか異業種参入(株式会社)にも抵抗がありません。勿論物売や物作りの業界ではありませんのでそれなりの規制が必要なことは言うまでもありません。しかし、表面とは裏腹に資本の流入は進んでいると言われており、我が業界も資本主義や市場経済との「付き合い方」を今後は考えていくべきではないでしょうか。
現実をみると十七年十月からは「介護保険」、十八年四月からは「医療保険」も加えた制度改変が目白押しです。資本主義の中の社会主義といわれる制度が根底から揺らいでいるようですが、「無い袖は振れない」という事が本音ながら、在宅者と施設利用者の公平性を見直すために食費や居住費を各自負担とするという見直し論には一見整合性があります。税金も掛金も元はと言えば全国民の拠出金ですから、ある程度の受益者負担は当然です。
今回の見直しを分かりやすい例で検証してみると、「デイサービス」の昼食費は今まで自己負担四〇〇円(食材費)、介護保険三九〇円(調理費等)計七九〇円でした。今後は全額各自負担となりますが価格は自由(丸投げ)となると七九〇円徴収しない施設は減収となります。行政の設定値(点数)は最低価格と認識してきた施設としては問題です。世間の常識の昼食費は五〇〇円〜六〇〇円との情報もあります。施設は施設で低価格競争で客集めするという噂もあります。大量消費と時給八〇〇円のパートで構成されている、マスクプロダクションの吉野家やコンビニと手作り給食(治療食も含む)を同列にみてよいのでしょうか。
ともあれ、目前の利害ばかりにとらわれず、継続的な施設の健全経営のためには少しの「余裕」が欲しいものです。「制度づくり」の難しさは分かりますが一方ではD.P.C(診断群分類)を通して医療費の「まるめ」政策を押し進めながら、加算点数などによって供給側の要望に答えようとし(結構ですが)、他方ではホテルコストなどと称して受益者負担の増額を図りながら所得証明によって介護保険がカバーする低所得者対策も導入しようとしているので、制度はますます複雑化し混迷の度を深めています。発足当時、介護保険は「貧困対策ではない」という声を聞いたように思いますが低所得者対策は必要であれば他の制度(生保の拡大など)で行うべきです。
折りたたむ...一九九一年に私は大学を卒業し、総合ローテートの研修を経て、高知県に戻った一九九二年当時は、ちょうど訪問看護ステーションが法制化した年でもあった。また、付き添い看護を行っている病院が転換をはかりはじめ、介護力強化病院という新たな診療報酬体系の中での長期療養型の病院へと生まれ変わりを遂げていた。当時は病院から自宅へ帰す事を目標にリハビリテーション病院で汗をかき、自宅退院した患者さんのフォローで、毎週東西南北のコースを決めて訪問診療を行っていた。自分のいたリハビリテーション病院では入院待ちの患者も多く、退院に拍車をかけないとたちまち入院が滞り新患を受けられなくなるため、障害を抱えながらの患者さんを退院にもっていくのに、悪戦苦闘の日々を送ったものである。
そんな病院時代を経て一九九七年に東京の下町に診療所を開業し、八年が過ぎた。診療所の変遷も激動であるが、医療福祉業界を取り巻く制度の変貌はめまぐるしいものである。
二〇〇〇年には介護保険がスタートしケアマネジャーという職種が新たに生まれた。在宅ケアのサービス事業所や老人保健施設、老人福祉施設、長期療養型の病床が質的にも量的にも整備されてきた。急性期病院の平均在院日数も年々短縮化され、現在では十五、六日程度にまでになり、より一層在宅復帰に拍車がかかっているように思われる。
「住み慣れた自宅に帰る」これは極めて当たり前のことではあるが、障害を抱えながら、自宅復帰する事は決して容易な事ではない。本人の状態や支援体制によっては、看る側、看られる側双方にとっても苦痛が伴い、在宅生活そのものが破綻をきたしかねない。介護保険発足前に往診をしていた高知県では、自分が関わる対象者については、関連の訪問看護ステーションのおかげでそれほど困らなかったものの、地域の体制として訪問看護ステーションや訪問診療、訪問リハビリテーションを行う機関はまだまだ少なかった。また、ホームヘルパーの利用も限られた人のみのサービスであったため、地域サービスは決して充実していたとは言いがたかった。
その当時と比較するとサービスの量や供給体制は充実してきた。とりわけ訪問介護サービスのニーズは極めて高く、またデイサービスやショートステイといったサービスへのニーズの伸びも著しい。在宅で生活していく上でいかに介護の手を必要としていたのかが伺え、また費用負担をしても、適切な費用負担であればサービスを利用したいと希望する利用者は確実にいる、という事も明らかとなった。
しかしである、人々は決して介護される状態を望んでいるわけではなく、元気な身体でいたいのだ。単に世話をするのではなく、あくまでもリハビリテーション前置主義。当事者の自立支援と介護量の軽減が図れるサービスメニューを組み立て、必要なサービスが必要に応じて十分提供されている、そんな在宅ケアサービスが日本中どこにいっても当たり前になっている日が早く訪れるよう今後も地域医療を発端にサービスの充実を図っていきたいものである。
折りたたむ...本年九月五日から十四日まで当会の第九回目となる海外視察に参加して来た。ミュンヘン、ザルツブルグ、パリの三都市を訪れ、老人ホーム、ケアホーム、病院など合わせて五ヶ所を訪問した。参加者は平井基陽会長以下総勢十三名である。個々の施設についての詳細は紙面に限りもあるので省略するが「こぼれ話」というタイトルが付いているので、旅行中に気付いた事や、日本との違いなどについて述べてみる。
今回の訪問先は低所得者が多い地域の老人ホーム、郊外の老人ホーム、富裕層を対象とした認知症専用ケアホーム、街中にある地域と連携した老人ホーム、長期療養型の病院という構成で、いずれも認知症に力を注いでいた。日本と同様に認知症の対策には大童のようである。
どの施設でもゆったりとした造り、広い廊下巾、照明は間接照明が多く、日本の明るさを主眼とした直接照明とは違った印象を受けた。高齢者には照度が足りないのではないかと思ったが、バリアフリー化や原色に近い色を使うことにより補完しているのではとの印象を受けた。また、ある施設では各フロアにあふれる程の観葉植物が生い茂り、私などはすぐに維持費が心配になった。
食事についても入所者、職員、家族等のいずれもが利用できる食堂や喫茶室、また晴れた日には庭やテラスでの食事が可能なところも多く、敷地が広いのがうらやましかった。ただミュンヘンの施設で出していただいた昼食のお味は不評であった。
外国の施設では当然であるが、入所者は日中、普段着で過ごし、ユニホームやパジャマ姿はいない。部屋は個室が大半、私物の家具など日本ではすでによく知られていることである。ある認知症の施設でオムツの事を尋ねたところ、たまたまそこにいた十名程の入所者全てがオムツをしているとの返事には驚いた。いわゆる便臭はどの施設でも感じなかった。個室のせいかもしれないが、やればできるものである。
最近は日本でも増えつつあるが、子供との触れあいを重視している施設が多いのも印象的であった。施設内保育(これは職員のみならず近隣の子供も預かっているそうだ)や居室から隣の保育所の運動場が見えるなどの工夫がされていた。子供たちとのイベントも多くあるようだ。
犬好きの私としてうらやましかったのは,犬を連れての面会もOKで本物のジャーマンシェパードがお茶を飲んでいる飼主の足元で静かにしている光景が忘れられない。介助犬のみならず、飼犬も立派な家族であると私は考えている。レストランでも電車やバスでもヨーロッパでは平気で犬がいる。犬は吠えない、咬まないという前提があるからこそ成り立つことである。アニマルセラピーではなく、よくしつけられた犬なら自由に連れてきてもよい病院にしたい。ところでファッションの街のパリに犬の落し物が多いのは何故だろうか。法律で規制されており昔より随分減ったと人は言うが、まだまだ注意して歩かないと危ない。
最後に訪れた病院は急性期から慢性期の病院へ再編したばかり。まだ試行錯誤の状態にあるように感じたが、医師と看護師の意見の食い違いが我々の目の前で展開され、いずこも同じとおもしろかった。この看護部長は近々別の病院の立ち上げの為に退職するといっていたが、こういう機関車的な人がいないと話が進まないのは日本も同じである。
弱者である高齢者が自分の最期をどのようにして決めるのか、今回訪問した国々ではどこも金次第という感がしてならなかった。今後の日本もその方向付けがなされているのではないか。フランスにおける暴動のニュースを聞きながらそのような事をおもった。
折りたたむ...厚労省の医療構造改革推進本部は、十二月二十一日「療養病床の将来像について」との文章を公表した。
内容は、療養病床の再編を進め、医療必要度の高い患者を対象とする施設として位置付け、人員体制のあり方について検討するものである。
介護保険の療養病床は、医療保険の療養病床や老健施設あるいは特定施設(有料老人ホームやケアハウス)への転換を念願に置いた経過的類型を一定期限設け介護報酬の評価を行うものの、平成二十四年度以降、介護療養病床への介護報酬を廃止するものとしているのである。
このことについて、会員各位のとらえ方や感じ方は必ずしも同一ではないが、思い切った制度改革であるという点については一致している。考えてみると、介護保険制度の立案段階では、療養病床のほとんどが介護保険施設に移行してくれということを当局から要請された。しかし、その前後の在院日数短縮化政策の強化は、必然的に療養病床の急増という結果となった。そして、介護保険制度実施の直前になって「保険料が高くなり過ぎるので、介護保険でも医療保険でも好きなほうにいってくれ」といわれた。そこで、介護保険で対応しようとして県に書類を提出したら「先生のところは医療と介護を半分ずつにしてくれ」というようなことがあった。
そして五年目になったら「これから介護療養病床を廃止するので、医療保険にもどるか、それとも老健施設か、特定施設になってくれ」と言われているわけだ。よく考えてみるとこんなストーリーで、今更ながら腹立たしい。
一番の問題は、医療療養病床になったとしても、訳の分からない医療必要度で、必要度が低いものは排除しようとしている。結局、わが国の病床数を少なくして、医療費を安くするための一手段になっているように思う。また、十年前のRUGVを変形して、なぜこんなことに悪用されるのであろうか。MDSもRUGも開発に協力してきたのは本会であり、アセスメント方式としてはよいものの、医療費支払い方式としては、活用できないとしたのも本会である。
なにも歴史を知らない人々は、まったく新しい仕組みだと考えるかもしれないが、今回の医療必要度が老人の専門医療の向上に寄与する部分より、無理やり医療必要度を高める算術病院がまた生まれる危険があるように思えてならない。
われわれは、老人の専門医療の質の向上のために二十年以上の実績がある。あらゆる調査、学習、研修、研究を通じて、さらに一般の人々とともに高齢者の医療の質についてシンポジウムを開催してきた。それが療養病床は、一部を除き病院という医療の場から追い出すというのはいかがなものであろう。ただ、なんの専門技術の向上もなくケアの質の確保にも努力してこなかった療養病床の末路だと言われれば、その通りの病院があることをわれわれも知っている。
天本元会長は「地域ケアの中核となる病院であり、かつケアリビングのひとつとしての老人専門病院と地域ケアの環境」をコツコツと創り続けてこられた。大塚前会長は「大往生の創造を理念に、高度なケアと医療が付いた有料老人ホームを目指してきた」と述べておられる。会員各位もそれぞれであるが、この二十年間を振り返ってみると、それぞれの理想は、ある程度達成できたと考えている。
今後も、厚労省の考える方向と、われわれの進む方向は別になるかもしれないが、老人の専門医療の確立と質の向上のため邁進したい。
なにも悲観的になる必要はないし、本物だけが生き残っていくのであるから、自由にケアの質を競争させるという本会の主張は不変だ。
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