老人医療NEWS第79号 |
先の大戦が終わり今年が六〇年の節目の年である。敗戦国が経済大国に変貌し、一流国?の仲間入りしてから久しいが、最近昔の復興期の日本を懐かしむ人が多いような気がする。戦後生まれの小生はもちろん戦前、戦中のことは知らないが、小学時期の記憶は鮮明に残っている。今の子供と昔の子供は、どちらが幸せかをよく考える時がある。物がなかった時代は飴一個がありがたかった。オモチャひとつを何年も使っていた思い出がある。今は物が氾濫し、拝金主義が横行する社会になっているように思う。
文明国または一流国といわれるには沢山の要素があると思うが、最低でも「子供が安心して育てられる」「歳をとっても安心して生きられる」の二つがなければ文明国とは言えないと思う。現代の日本はどうだろうか。少子高齢の典型の国になってしまったが、この国で安心して子供を生み育てられるだろうか。
我々が毎日実践している老人医療の現場では「長生きは罪悪」のように聞こえる風潮は珍しくない。
こんな国になる政治家を選んだのだから国民がその程度の人間と言ってしまえば、それまでだが、文化とか習性というものは、そう簡単には変えられないものである。
日本人は保守的なのか寛大なのか、はたまた忘れやすいのか、同じような政治家を選んでしまうのである。二大政党などと言われているが、世論調査によれば、どっちもどっちだと大半が支持政党なしである。選びたい政党がない国民にとって解決策のひとつは、大事な問題、例えば郵政民営化、医療、介護保険問題、年金問題等々、多々あるが、個別に国民投票して決めたらいいのではないか。老人医療に携わってきて思う事のひとつに、高福祉を望んでいる人は多いが、だからといって高負担はイヤだという矛盾が存在することである。北欧の高福祉国の税負担は七五%前後にもなっているが、日本は四〇%位である。
医療問題を語る時、いつも医療の公平性とか平等を言う人がいるが、人間生まれてから死ぬまで公平な方がずっと少ない。だから競争という原理も働くし、切磋琢磨が必要とも言える。老人医療や少子化対策といった文明国の最低レベルの問題を解決する施策を政府には示してもらいたい。いろんな人間がいるが、社会でみんなが満足する政策などありはしなくても、国民投票で大事な関心事は国民自らが決められるという事にすれば、かなり不満感は減ると思う。
世論調査によると日本は悪い方へ向かっていると感じている人の割合が高いという。私もこの国はどこへ行こうとしているか不安だらけである。この国を変えたくても、信頼出来る政党が持てない。国民投票の仕組みさえない。そして何より子供達が日本の将来に希望や夢を抱きにくくなって来ている。さらに年寄りが長生きしにくくなって来ている。
これが戦後六〇年かけて先人がつくりあげた文明国の姿だったのか。
折りたたむ...今年三月三十一日付で院長を退任し、自分自身を振り返る昨今となる。現役外科医時代は、腹部外科を主体としながらも、乳腺、甲状腺、卵巣等の腫瘍外科や整形、形成外科分野、唾石、ガマ腫摘出といった口腔外科領域にも手を伸ばしていた。当然、患者さんには高齢者が多数居られた。
現在深刻な問題として議論されている老人医療費の膨大化は、昭和四十年代に始まっていた。都知事が行った老人医療費無料化に端を発していると考えられる。私はその当時、公立病院勤務であったため、経営と無関係に働けたのは幸いであった。当時、ゾロ薬品を使用する病院は良質な医療提供をしていないと評価されていたが、お金は世の中を変えるもので、今はジェネリックとして推奨されている。
さて、厚労省は、高齢者の心身の特性を踏まえた適切な医療の提供等をすすめているが、その具体的提言はない。当会が医学的見地からだけでなく、心理、宗教、民族性等を加味して検討すべきである。また、患者本人の選択権も主張されているが、色々な情報が提供されるだけで、本人が納得できる選択権の行使可能な環境整備が整っているだろうか。所詮、医者のお勧め商品を買う事となる。医者はいかに多くの商品を持つかであり、セカンドオピニオンの提供に積極的になる必要がある。
最新、最先端の医療機器が開発され色々な疾病病態の情報が得られるようになったが、医療成果にどれだけ繋がっているだろうか。高齢者の手術依頼を出しても、手術はできないと戻ってくる。理由は高齢者だからである。
私の母が胃癌で逝った時、胸部レントゲンで肺転移のある事は認められていたが、気管支鏡、CT、MRI等の検査が行われた。私は医者であることを告げていなかったので色々と説明頂いたが、結局手術はできなかった。患者にとって、それまでの検査は何の役に立ったのか。気管支鏡は辛い検査であっただろうと後悔している。内科医ならば十分に役立つ情報かもしれないが、古典的外科医の私にとっては今のような検査機器のない時代にいろいろな手術を無事できた事は空恐ろしい気もすると共に、検査検査の現在に違和感がある。できる検査、治療をすべて行う事が最善の医療か、医学的見地のみ優先させる事が最善なのか。高齢者医療においては教科書的単純な考え方は不適切と考えている。
竹中郁夫氏の連載記事に興味あるものがあった。それは、医療技術が進歩すれば成功した場合の果実は豊だが暗転すればダメージも大きい、医原性事故死の患者数は日本で年間二万から五万人いると推測されるとある。年間の死亡者の内、かなりの割合が医療を受けなかった方が長生きできたと想像できる。また、医者のストライキ中に死亡率が低下した例も述べている。コロンビアで三五%、米国で一八%、イスラエルで半減との事である。つまり国や地域を問わず同様の現象がみられる。これらの事からも医者が過剰もしくは不適切な治療を行っているのではないかと想像される。当会でも高齢者の適切な医療についてもっと議論を進めたい。
折りたたむ...ADRと言う聞きなれない言葉があることを知ったのは、福山地区病院会の平成十七年六月の例会であった。このADRにたどり着くまでの経過を述べる。
今年の三月、福山市内の民間病院で、院長が意識のない七〇代女性患者を治療中、その家族全員の強い要望により装着している人工呼吸器を外し死亡させた。市医師会は、日本医師会が作った医師の職業倫理指針に照らして院長の行為は「院長一人で判断したことが問題」との見解を示した。すなわち倫理委員会を設置し、そこで検討し判断すべきであったとの結論である。しかし、この患者さんは、肺炎で入院され喀痰が多く気道確保の為に二日前に気管内挿管を行ったが、全身状態は極めて悪く人工呼吸を続けてもあと一〜二日の命であったそうだ。私はこの件に関しては倫理委員会で検討するなどの問題ではなく、インフォームドコンセントが不十分であったがためにマスコミの知ることとなった事件であったと考える。このような不自然で中途半端な治療は行うべきでなかったと考えている。
しかし倫理委員会の設置も検討に値するものであり、四月例会で議題に上がった。中小病院が個別に倫理委員会を設置することは難しいので、病院会として会員が自由に利用できる倫理委員会の設置を検討することとなった。その過程で多くの会員が現在必要としているのは倫理委員会だけではなく、医事紛争を早期に簡便に解決できる組織、手段であることが分かった。病院にとって医事紛争あるいはその一歩手前の事態は、いかに良い医療、介護を行っていても常に起こりうる可能性があり、それが悩みの種でもある。
福山市は広島県の東端に位置するため、ひとたび問題が生じたらその対策に1時間以上かけて西端の広島市にある県医師会まで、それも夜七時過ぎに出かけなければならず、その労力たるや並大抵なものではない。身近に相談できる手段があれば会員は大助かりである。そこで紹介されたのがADRであった。このADRとはいかなるものなのか。法務省司法法制部や社団法人日本商事仲裁協会のホームページなどで学んだ。
医事紛争にかかわらず紛争の最終的な解決は裁判におうところであるが、近年「裁判外紛争解決手続」と呼ばれる手法が注目されている。これが一般にADR(AlternativeDispute Resolution)と呼ばれている。ADRは「訴訟手続によらず民事上の紛争を解決しようとする紛争の当事者のため、公正な第三者が関与して、その解決を図る手続」と定義されている。
ADRには、裁判所が行う民事調停や、社団法人その他の民間団体が行う仲裁、調停なども全て含まれる。厳格な手続にのっとって行われる裁判に比べて、紛争分野に関する第三者の専門的な知見を反映して紛争の実情に即した迅速な解決を図るなど、柔軟な対応が可能であるという特徴がある。すなわち1.非公開性 2.柔軟性 3.専門性 4.迅速性・低廉性 5.国際性 などの特徴があげられる。第一六一回国会において「裁判外紛争解決手続の利用の促進に関する法律」(いわゆるADR法)が可決され平成十六年十二月一日に公布された。厚生労働省にも医療ADRに関する委員会が設置されているとのことである。
我々は説明・理解・納得を基本に患者様の為の医療介護に努力しているが、何事にも不可抗力・不運・誤解は避けられない。このADRは我々医療提供側にとっても患者様にとっても有益な内容であると考えられる。今後、医療ADRについて専門家による講演を依頼するなど知識を蓄え、ADRを有効な手段として活用したい。
折りたたむ...介護報酬改定の十月一日改定の 内容が公表された。内容的には簡素なものであるが、これを正確に理解しろといわれると、まったく自信がない。
介護保険財源も潤沢ではなく、費用の増大になんとかブレーキをかけたいという主張もわからなくもないし、保険料の引き上げも難しいということもわかる。しかし、食費や居住費の利用者負担ということで、利用者の負担増と介護保険施設の収益減は明らかであるので、どう考えても全面的に賛意を表することはできない。
過去一年間の厚生労働省の動きや介護報酬部会の議論を振り返ってみると、どう考えても介護療養型医療施設は、徹底的なキラワレ者に祭り上げられてしまったように思うのは、単なるひがみ根性であろうか。
民営化、規制緩和、行財政改革という大きな波の中で、介護保険制度は結果として、規則と税金のかたまりのような特別養護老人ホームを文字通り擁護することに終始した。かわいそうなのは老人保健施設で特養と同一視された上に、「個室・ユニットケアではない」とばかりに、冷たくあしらわれてしまったように思う。もちろん、介護療養型医療施設は「ケア水準が低い」と判断されたふしがある。
何も認めないというか、個室・ユニットケア以外、ケアの質の向上について何も考慮しないというか、できないというか、ケア面より財政面だけの対応に終始しているともいえるだろう。ただし、介護保険施設三類型の連携プレーもおそまつだったし、真剣に活動してくれる同志も少なかったように思う。この点は大いに反省しなくてはならない。
敗者は黙するのは当然なのかもしれないが、老人の専門医療の確立と充実を目指してきた我々にとっては、聴く耳をもたないかのような行政の対応にやりきれなさを感じる。ただ、済んでしまったことをグズグズいっても生産的でないので、なんとか懸命に対応していきたいと思う。
重要なことは、今後の介護報酬改定と診療報酬改定の関係である。保険局の関係者は「介護保険は介護保険での議論だ」などとまったく無関係だといわんばかりだが、各新聞には「食費の利用者負担は十月から」とか「四月から」あるいは「医療療養病床のみ」といったリーク記事だか、憶測だかわからないことが書かれている。
おまけに高齢者医療保険制度の議論がわけのわからないまま進んでいるので、情報が錯綜している。現時点ではこの先どうなるかを知っている人はいない状態である。
それにしても最近の厚生労働省は変だ。課ごとには方針があるのだが局と局の調整は行われていない。昔から「局あって省なし」といわれてきたが、これが一層ひどくなった。それでも、介護保険施設の食事が全額利用者負担となり、医療保険は現行のままというのもスッキリしないし、十月以降、医療と介護の病床を合わせ持つ病院や診療所は、大混乱だ。
ひとつだけハッキリ主張したいのは、医療保険の世界で療養病床のみの利用者全額負担は、おかしい。どうゆう理由にせよ。一般病床か療養病床かを強制的に選択させ、その後療養病床のみとか、高齢者のみにするのは反対である。一般病床と療養病床が明確に区分されているわけでもないし、回復期リハビリテーション病床などは、療養も一般でいいことになっている。
国民の合意があればよいというのであろうが、制度を乱立させ、その制度間の調整も十分できないのに、財政的な枠組みからの発想で、ご都合主義的に制度変更するのは、是非やめて欲しいというのが国民の合意だ。
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