老人医療NEWS第76号 |
老人の専門医療を考える会はかつて、高齢者医療のあり方として医療と介護とを一体的に提供するという生活への視点を重視し、出来高払いから包括払いに変えた主体的医療提供体制を「介護力強化病院」という新たな概念として、実践の中からサービスモデルを提示し制度に反映させてきた。
医療改革はまさに老人医療からはじめられ、未だ改革途上にあるといえる。そして今や医療改革は社会保障全体の改革の一部として位置付けられ、各保険(医療・介護・年金)の役割分担、整合性をも全体最適の視点から見直されることとなった。
そのような視点から医療保険、介護保険における施設サービスを見直していく際、地域ケアの提供体制全体からの見直しが必要だ。地域ケア提供の場には病院、介護施設以外にも居宅や第三のカテゴリーといわれる住まい(共生住居)も含まれる。
病院についてみれば、一般病床において現状の七十二万床の機能は未だ特化されているとは到底いえない。一般病床とはいっても、四・三uの狭い病室に四対一の看護体制で医療法以下の基準にて入院が継続されているところも少くない。
一般病床は急性期・高次・専門医療機能に特化集約されるべきで、医療保険療養病床は亜急性期、回復期リハビリテーション、特定疾病、終末期病棟に機能特化集約されていくべきではないか。
そして介護保険施設は長期療養の場である第三のカテゴリーの共生住居に一元化していく。介護保険施設の箱を一元化していくにあたっては自己完結から地域内完結型にサービス提供構造を変容させ、サービス構造(医療・介護・生活支援)に応じた報酬体系に変換していくべきであろう。
医療保険、介護保険、年金保険の分業から協業へ
今後の進むべき方向は社会保障全体から、そして、地域ケア全体からの見直し、さらにサービス提供機関の機能を特化し、サービスの地域内完結を目指していくこととなろう。施設サービスと在宅サービスとの整合性も問われていくこととなる。必要なとき、必要なサービスを、必要なだけ提供していくべきである。現状の箱(施設)を中心とした、サービスが限定されている体制から脱皮して、必要なサービスは地域から上乗せできれば居宅でのサービスと同じとなる。
このような改革ヴィジョンに進んでいく際、入り口である一般病床の大胆な改革が先延ばしされ曖昧な形態で残されるならば、療養病床の整合性だけを正しても全体最適は得られない。一般病床が機能特化されることにより、療養病床も機能が絞られ、介護保険施設の改革に繋がっていくこととなるのではないか。
全体像の提示、計画的な改革スケジュールにより社会保障改革がなされていくことを期待する。しかし、我々高齢者医療の先駆け者は制度の後追いはしたくないものである。
折りたたむ...前理事長である父から理事長職を引き継いで、この四月でちょうど三年になります。「老人医療とは?」との問いにまだわからない事ばかりの私ですが、機会をいただきましたので発言させていただきます。
今、多くの病院がリハビリテーションに力を入れており、当院も私が引き継いでから積極的にリハビリテーションを行なっています。リハビリテーションは現在、急性期・回復期・維持期・終末期と分かれていることはご存知だと思います。回復期リハビリテーションにより自宅退院率は上昇したと思いますが、いろいろな病院の統計でも六〇〜七〇%で、やはり一〇〇%は無理のようです。したがって残りの三〇〜四〇%の方は長期療養の可能な病院か施設に移ることになり、当院は、その自宅退院できなかった方を受け入れています。回復期リハビリテーションを受け、当院に入院される方は四十歳代・五十歳代が多くいます。今までの接遇は高齢者だけの対応でよかったのですが、これからはそれではいけないという例がありました。
一般的に高齢者に対する声かけは堅苦しくても駄目な場合も多く、私自身も「○○さん、どこか痛えとこはねーかなあ」と岡山弁丸出しで、まるで友達に話すような声かけをして関係を作っていくようにしていました。このような状態に当院の職員もどっぷりと浸かっていました。
しかし今回、ある入院患者の家族からクレームがありました。四十歳代の男性が入院され、一週間後にその奥様が「どうしてなーなーで話をするのですか」と、職員から馴れ馴れしい声かけをされたことに立腹されていました。その若い職員は身に付いたコミュニケーション方法を使っただけで、またその声かけしか知らなかったのです。
今までは当院には長期療養を希望される方のみが入院されていましたが、当院のリハビリテーション機能がアップしたため、回復期からの要請も増え、入院患者の年齢層が下がってきています。平均年齢でみれば、八一・四歳でほとんどの方は後期高齢者ですが、年齢層の幅も広がりを持つにつれ、このように患者からの直接の声が聞こえるようになって来ました。今回のクレームをきっかけに、職員教育の見直しの必要性を感じています。職員から入院患者へ一律の対応をするのではなく、まず一人一人の患者とラポールをきっちりとれるようにしなければなりません。それがあって始めて、コミュニケーションがスムーズにいくようになります。
また新人職員に対して高齢者に対する接遇は「なぜこうするのか」という理由をしっかり理解させることが大切で、理解ができてはじめて様々な患者への声かけのバリエーションができると思います。先輩職員のしている風景をみてただまねるだけでは、同じこと繰り返しなのではと再確認させられました。「職員教育を徹底すればよい!」と言うのは簡単ですが実際には難しいものです。
現在医療制度や診療報酬がめまぐるしく変わっており、リハビリテーションに力を入れている病院も多く、当院と同じような例をもたれている病院もあるかと思います。本来ならば老人の専門医療をしたいのですが、残念ながら時代の流れがそうさせてくれないような感じがします。
折りたたむ...九十六歳の女性。平成九年、痴呆症のため当法人内の老健施設入所。その後、痴呆症状の悪化、ADL低下、医療依存度の増大により痴呆療養病棟を経て特殊疾患療養病棟へ転棟。時折笑顔はあるも意思疎通は困難、ほとんど寝たきり状態となった。
本人の生活保護費はほとんど娘の生活費に消え、入院費の滞納が目立つようになり、入院の保護者を娘から孫へ変更。その時点で「緊急時のDNARオーダー(蘇生術を行わない)」が「行う」に変更となった。個人的なつながりの中でその理由が「生活保護費の中から滞納分も払ってゆくので」と孫が言っていた事を知る。
十二月、両側の重篤な肺炎発症。保護者である孫の意向で、「最大限の医療を行う」と方針が決まり、人工呼吸器管理となる。種々の治療を試みるも甲斐なくご家族との交流も少ないままに発症七日目に死亡。
九十五歳男性。平成十三年、痴呆症と脳梗塞後遺症のため当院入院。意思疎通はほとんど取れず、経管栄養、全介助状態であった。原因不明の両側胸水の経過観察中に肺炎発症。今後の治療方針をご家族と相談したところ、「一ヶ月後の孫の結婚式まで何とかしてほしい」と積極的な医療を望まれた。
それまで「できるだけ緩和的な医療を」とおっしゃっていたので「最大限の医療を行っても、そこまで持たない可能性が高いこと。最悪の場合は、結婚式当日に亡くなるという可能性もあること」を説明したが、お気持ちは変わらず、人工呼吸器管理となった。呼吸器から離脱できた時期もあったが、連日のご家族の看病の中、二十二日目に死亡された。
意思疎通のとれない高齢者の終末期医療は本当に繊細な問題を含んでいる。何度も何度も人工呼吸を付けながら、回復される方、日々の細やかな医療とケアにより、意思疎通困難、経管栄養、頻回な喀痰吸引、全介助を必要とする状態であっても、毎日面会されるご家族の愛情の中で支え支えられて、限られた「命の時間」を生きておられる方、ご家族・病棟スタッフ・チャプレン(病院付き牧師)などの連携の中で最小限度の医療と最大限の介護を受けながら最期の時を過ごして召される方。どの方の「生」も「死」もたった一つのかけがえのない尊いものである。
「必要かつ充分な医療」は、当院の創設以来の課題である。医療行為が、ゆきすぎれば、過剰医療と言われ、足りなければみなし末期と言われるが、この二例のケースの「延命処置」は倫理的にどうだったのだろうか。ご本人にとって、不幸だったのか。このようなケースは、死亡症例検討会のたびに「医療費の無駄づかいではないか」「倫理的に問題があるのではないか」「ご本人の望まれたであろう尊厳ある死だったか」と問題になる。しかし、誰がそれを判断できるのだろうか。確かにご家族の第一義的理由は「結婚式」であったり「経済的問題」であったりするが、そのこころの中にその高齢者に対する家族としての「愛情」がないかどうかは、誰が評価・判断できるのだろうか。別のケースにおける「どのような形であれ生きていて欲しい」と思う愛情(愛着)は、ご家族のわがままにすぎないと誰が言えるのだろうか。その判断基準はどこにあるのだろうか。
「命」は、本人自身のための身体的・精神的な価値とご家族やその人を愛している人達のための社会的な価値、そして、神様から与えられた霊的な価値があるのではないかと私は思う。当院にも倫理委員会が発足した。今年は特に高齢者の尊厳ある「生」と「死」のために学んで行きたい。
折りたたむ...介護保険制度見直し作業が一段落し、これから国会審議となる。五年後の見直しということもあって、与野党対決案ということにはならないであろう。
それにしても最近、介護療養型医療施設の人気が霞ヶ関で低下しているように思えてならない。老人の専門医療の確立・向上という当会の主張は、ほぼ受け入れられているにもかかわらずである。介護保険制度が創設され、実施されてから四年が経過したが、特養、老健、介護療養型の介護保険三施設では、政治力もある特養が、一番人気となってきている。これは、特養人気というより、個室ユニットケアという大宣伝が、都市部のサラリーマン層に支持されているといったことと無関係ではない。
地方で病院経営をしている立場では、個室化もユニットケアも挑戦したいのだが、室料差額を支払うことのできる要介護者が極めて少ない。一日五千円程度の負担でも、希望する家族は皆無という地域もある。個室化に経済的裏付けがあるというのなら話しは別だが、よく分からない。
特養の療養環境が良いことは、自らも特養経営している理事長が当会に多数いるので、よく理解している。しかし、それは補助金漬けの結果であったことも事実である。
介護保険制度立案の課程で「今の要介護者ではない、将来の被用者年金受給者のための制度としてどのようなものが相応しいのかを検討する」という趣旨の発表を旧厚生省の幹部の講演で聞いたことがある。このことは、実は、都市部でこれから老年を迎えるサラリーマンや公務員のために介護保険制度を考えるということであって、すでに現在、要介護者になっている人々を主な対象としていないということであろう。
家族介護も当てにできず、都市部で老後を過ごす元サラリーマン達は、年金の範囲で特養の個室が利用可能であれば、その方がいいと判断するのは、しごく自然かもしれない。
介護療養型もいずれ、個室・ユニットにするしか方向はないし、むしろ老人の専門医療の質の向上という意味では賛成だが、今すぐにはできない。これは老健も同様である。
なぜ、霞ヶ関は「特養がお好きか」を考えると、一番安い、人も少ない、行政のいうことをきく、数が多い、おまけに医療的なことでこまかくいわないし、イメージもいいということであろう。
特養と比較してばかりではあまりなので、再度、なぜ介護療養型が介護保険で不人気かということを考えてみる。
結局、介護保険で高齢者の長期療養は全て対応しようとして、約十九万床でスタートするはずが、結局十三万床で打ち止めになってしまい、その後、しっかりした介護療養型から、特殊疾患や回復期リハビリテーションへ転出していった組と、目先の利益のみで介護から医療保険対応に転換した組が続出した結果、要医療の要介護者は、介護療養型でなければ対応できないといった状況ではなくなった。それに、老健には社会復帰という旗印があり、特養には生活の場という理念がある。介護療養型の病院は、当然医療と看護、リハビリテーション、ソーシャルワーク、栄養管理などなどということになるが、全てに対応できるエクセレントな介護療養型が少ない。
さて、老人の専門医療を考える会としては、何よりも質の向上を最優先したいので、介護療養型の不人気の原因を再度検証し、なんとか質の向上策を取りまとめるとともに、これからの介護保険サービスの展開についても、積極的に提言したい。
この意味で、当会会員を始め、介護療養型医療施設の経営者は、一人一人がここ数年間で人気が低下していることを危機と認識することだ。
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