老人医療NEWS第73号 |
当会が実施している「老人病院機能評価」は今年で十一回目を終えた。昨年、ひとつの節目である十回目が終わったのを機に本調査を今後も継続するか否かの検討が加えられた。
昨年の九月末現在で、「老人の専門医療を考える会」の会員病院五十五のうち、日本医療評価機構の認定を受けた病院は十八病院、ISO9001を取得した病院は三病院であった。にもかかわらず、これらと「老人病院機能評価」とは本質的に異なるものであり、自己評価ではあるが自分の病院の位置付けを知り、老人医療サービスの質の向上を図る上で極めて有益であるとの結論を得て、十五年度も調査を継続することになったのである。
しかしながら、本調査への参加施設数ならびに回収率の推移をみると、悲観的にならざるをえない。調査対象は当会と「日本療養病床協会」の会員病院であり、その数は年を追って増加しているにもかかわらず、参加施設は一九九八年の第五回における二〇〇病院をピークに、その後は減少の傾向にある。また、回収率に関しては第一回の五八・八%が最高で、その後は低下の一途をたどり、今回は過去最低の三一・七%を示すに至った。老人医療に対して志の高い病院にもっと参加していただきたいと思う。
その一方で、第一回から連続十一回参加した施設が二十八病院存在している。これらの二十八病院について平成五年度から平成十五年度の得点の推移をみると興味深い点がいくつか浮かび上がってくる。
まず、成長著しい項目は「病院の機能」と「社会地域への貢献」である。前者は医師、看護・介護職、リハ専門職、MSWなど病院スタッフ数に関するものであるが、この十年間に百点満点に換算して平均二十二点の増加がみられた。後者は在宅・訪問系サービスの充実と地域の社会資源との連携に関する内容であるが、同じく百点満点換算で三十三点の増加が認められた。
しかしながら、「医療・看護・介護」の項目については、十一点の上昇にとどまっている。この項目の内容は看護・介護計画の立案、抑制の回避、寝食分離、入浴頻度などに加え、植物状態患者、問題行動を伴う痴呆患者の(受け入れ)割合が高い点を評価する一方で、経鼻管栄養、おむつ・尿留置カテーテルを使用すると減点される仕組みになっている。つまり、重症・重介護患者の割合が多いほど高得点を挙げるのに多大の努力が必要とされるわけである。ここに、老人医療の現状に対する課題が凝縮されている気がする。
日本の療養病床は今年の六月末で診療所を含めると三十五万七千床に達した。その中に、公的医療機関の三万一千床が含まれている。老人の入院医療のほとんどはこの療養病床を舞台に展開されるはずである。今回の調査から老人病院も「リハビリテーション注力型」、「終の棲家型」、「在宅ケア支援型」、「特定疾患注力型」など、多様化していることが分かった。
今年の十月開催の「老人の専門医療を考える会医師ワークショップ」で、老人医療のあり方について、いま一度、熱い議論を戦わせたいと思っている。
折りたたむ...早いもので「老人の専門医療を考える会」に入会させていただき八年余になります。この会の存在を知って以来、入会することは私の夢でしたが、入会審査を受ける直前に、自信がなく申し込みを辞退したことも、今では懐かしい思い出です。
医療界で何かと批判にさらされ、マイナーな立場にあった「老人医療」を変えるべく、設立当初より尽力してこられた「老人の専門医療を考える会」の先生方の努力は大変なものがあったと思います。
かつての「注射づけ」「検査づけ」「薬づけ」の出来高払いの世界から、定額制に移行した平成二年四月の「入院医療管理料制度」の制定は、この会の活動の賜物です。この制度が実現しなければ、当院は倒産していたと思います。余裕の出来た分、人手を大幅に増やすことができるようになり、職員の労働条件も改善しました。
平成四年から六年にかけて、自家製の褥瘡ゼロをめざして取り組むことができたことも、平成六年から九年にかけてのMDS‐RAPsのケアプラン勉強会、平成十年十月の「抑制廃止福岡宣言」も、包括性なしにはでき得なかったことです。
平成十二年四月の介護保険制度施行後は、特別養護老人ホーム、老人保健施設、介護療養型医療施設の三施設の間での「選ばれる施設」をめざし、「ケアの質の向上」に努めてきました。
ところがここ数年の間に、我々を取りまく環境は急速に変化しています。介護保険三施設に加え、グループホーム、高齢者アパート、ケアハウス、特定入所施設等様々に、高齢者の「住む所」が拡がり、そのほとんどが個室です。価格帯も色々で、最近は低価格帯のものも増えてきました。
「抑制廃止福岡宣言」以後、ジャーナリストを含め、色々な人たちが当院を訪問されましたが、平成八年に療養型病床群の完全型に病棟を転換し、療養環境がよくなっていたにもかかわらず、誰一人として多床室を中心とした当院に入りたいとは言われませんでした。また、積極的にオムツはずしに取り組む中で、特に多床室の中でのオムツはずしが利用者の尊厳を傷つけることに気づかされました。
そのような中、職員からも自分達が入りたくなるような施設がほしいとの声が出始め、平成十四年九月に介護保険適用の九〇床の病床をすべて個室・ユニット化にしました。
約一年九ヶ月を経た今、二十四時間医療を提供できる療養病床が「生活の場」へ転換すれば、「ターミナルを看れる院内グループホーム」「院内ホスピス」としても機能することを実感しています。
一昨年十一月に亡くなられた外山義京都大学大学院教授が、生前、療養型病床が個室・ユニット化し、「生活の場」を取り込めば、老人医療・看護・介護の場で一挙に先頭ランナーに踊り出るかもしれないと言っておられました。今後、「老人の専門医療を考える会」の仲間の病院で、療養環境に「生活の場」をとりいれる病院が続いてくれることを願っています。
折りたたむ...この仕事を始めてから、二十三年が経過した。その間に、いろいろな人と出逢い、いろいろな話を耳にした。また、私自身もいろいろな体験をしてきた。その中で、本音とたてまえの間で、右往左往することもあるが、本文では、かなり本音に近いところで語ってみたい。
高齢者の長期医療施設(一昔前は老人病院と称されていた)においては、患者自らが療養を望んで、入院という意志を固めたケースは、皆無に等しい。九十九・九%は、家族もしくは、それに近い人達の意思決定で入院となる。その意思決定をするにあたっては、さまざまな動機があると思われる。私感であるが、ほとんどの場合、家庭介護困難もしくは不能で、施設に入れたいが、医療付きの方が良いということであろう。
さて、そこで「医療とは、何であろうか?」ここで望まれる医療は「人命は、何よりも尊い」などと、子供じみた話にはうんざりだ。ざっくばらんに書くと、長期療養型病院で働く医師のうち、この「医療へのニーズ」をきちんと理解している医師は数少ないと思われる。急性期病院においては「とにかく命を助ける」が最優先課題であってもよかろう。しかし、我々が慢性期患者に対して、同じ観点にいてよいものかどうか。
率直に言って、医師に求められるものは「女性のアクセサリー」と言い切ったら、ひどいお叱りを受けるであろうか。入院の意思決定者である家族の求めるものは、圧倒的に医療はアクセサリーなのである。なくても良いが、あれば若干美しく見えるかもしれないし付けているという自己満足もあろう。しかし、医師のサイドは、このアクセサリー論理に、ほとんど気が付いていない。それがゆえに延命、尊厳死云々が、未だに議論の対象となっている。
医師の世界というものは、横並びの世界であって、縦社会ではない。処方権は医師にあり、上司といえども、この処方権を変更命令できるものではない。あくまでも、医師個々が、自由決定できるのである。
平成二年に、介護を重視した観点から老人医療は丸めの制度になった。いわゆる医療管理料の制度の根本思想は、何であったのかを思い出していただきたい。この制度の、真の哲学が理解できれば「医師はアクセサリー論」という考え方は自ずから明らかになってゆくはずである。
私は「医師がアクセサリーに成り下がっている」と言ったことに対して、猛反発の顔が多数目に浮かぶ。おそらく彼らは、あらゆる角度から、それぞれ言葉は違っても自らの日常行動の正当化を行うであろう。
人の頭の中を考えること、すなわち「洗脳」の能力が私にあれば、彼らの思考を「患者のQOL」に向けたい。
自らがその患者の診療に携わることで、その患者のクオリティーがいかに改善されていくのかという立場であるならば、診療のパターンは大いに変わるはずである。そして「アクセサリー」から脱して本物の医師になるはずである。
一言「怒鳴る」ことが許されるならば『患者のADLぐらいは頭に叩き込んでおけ』と言いたい。察するに、家族が自らの親のターミナルにあたって、どのくらいの予算が用意されているのかを見抜くべきであろう。当然のことながら、定額制といえども、入院期間が長ければ、家族予算をオーバーすることはままありえる。入院期間があまりに短ければ予算は消化しきれず、家族に欲求不満が残るであろう。
「医は仁術」「医は算術」語り尽くされた事柄を蒸し返す気はない。
仁と算のバランスが考えられる医師こそ、この世界では名医といえるのではないだろうか。
折りたたむ...今年は、熱帯夜が続く異常気象。オリンピックに米国大統領選が重なる年は、政治も社会もガタガタすることが多い。それとは無関係かもしれないが、今夏は、厚生労働省のアタリ年となっている。
年金改革、参議院選、社会保険庁問題、厚生省スキャンダルという一連の流れは流れとして、介護保険も医療保険制度改革も全く視界不良で何がどうなっているのかわからない。
この七月二十八日に、社会保障審議会第九回医療保険部会が開催された。その中心的議題は、高齢者医療制度であった。つまり、老人保健制度による老人医療の提供を廃止する方向について議論しているようだが、この時期にする議論なのかどうか大いに疑問である。というのは、介護保険制度改革の方向が決まっていない状態で、いくら高齢者医療制度を議論してもどうしようもないように思えるからである。
介護保険の方は、第十六回介護保険部会が、七月三十日に開催され、報告書の取りまとめ作業が行なわれた。なんと本文七十六ページという大変なしろものであるが、読み返してみても、どうもスッキリしない。何か議論らしい結論もないし、メインテーマであるはずの給付内容や介護報酬などのことについては、ファジーになっている。つまり、何をどうするかという報告書ではなく、何が問題になるかという観点でまとめているとしか言いようがない。その上、どこにもこうするという主張がない。読み疲れするしろものだ。
医療と介護は、切り離して議論できるものではないし、介護に医療を取り入れたので、個別な議論をしても、結局は双方の整合性を確保しなくてはならなくなる。
報告書案として示された「介護保険制度見直しに関する意見」で驚かされることは多いが、次のようなとりまとめはいかがなものだろう。
「介護ニーズの普遍性」を考えれば、六十五歳や四十歳といった年齢で制度を区分する合理性や必然性は見出し難い。(中略)ドイツとオランダについては、社会保険方式を採用しているが、どちらも、0歳児を含め、全年齢を対象とする介護サービスの保険給付を行なっている。こうしたことから見ても、「普遍的な制度」への発展は、社会保障システムとして当然の方向であると言える。
オイオイ。本当か。まさか学生のレポートではあるまい。
介護保険制度を全年齢対象とするのは、社会保障システムの当然の方向であると主張しているのである。
では、二〇〇〇年四月の介護保険制度実施は、当然の方向と逆行したことになるのではないか。医療保険や老人医療制度で年齢区分している例はいとまないが、それはどうなんだろう。もっとひどいのは「介護ニーズの普遍性」があるというが、それなら「医療ニーズに普遍性はない」といえるのか。こんな勉強不足で時代遅れの講談師のような議論に、われわれはいつまで付き合わされるのであろうか。
もう一つ、介護保険の議論がこの程度に過ぎないのに、医療保険の高齢者医療制度は、この先の議論が展開できるのであろうか。介護保険制度創設の前後で、さかんに高齢者医療制度は議論され、そして立ち消えになっていたものが、この時期に再燃したことのわけを厚労省は正確に説明して欲しい。
どう考えてみても、保険局と老健局が十分な話し合いを行なっていない。高齢者医療について、どっちつかずで真剣に考えていない。高齢者医療をばかにしている。というように邪推してしまうのは、悪いことか。
わが国の医療費も、介護保険費も大変なことになるから、しっかりと真剣に老人の専門医療を考えなくてはならないという同意を示すべきだ。
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