老人医療NEWS第70号 |
私は、大学を出て以来老人医療の場で相談援助業務に就き、高齢者が蒙るさまざまな生活問題に職業として接してきました。〈職業として〉と一応は記しましたが、身も心も高齢者やその家族が陥る状況にどっぷりと浸かっていたようで、ある上司から「老いと死に日常的にかかわり、考えているひとが、自分の老いや死をどのように実感して生きていくのか、実に興味深い」と言われたこともあります。
そして今、「いつ、療養型医療機関にお世話になってもおかしくないな」という歳になりました。一年前に父を見送った時点から「次は私の番だ」と強烈に意識するようになったからです。故遠藤周作さんが私に、「両親が生きているということは、来たるべき死への衝立てになっているんだよ」とおっしゃった言葉が実感として身にしみます。
貴会との接触は、日本の老人病院の市民権と質の向上に奮闘されてこられた設立メンバーの先生方の病院が開院されてから数年後のことでしたから、共に歩んできた想いを抱いています。
私は団塊世代のトップランナーです。日本の主立った社会保障制度はこの世代が高齢者になったときを想定しつつ、かなり大胆に改変されてきました。老人医療機関の位置も提供するべきサービスの質量もその都度揺さぶられてきましたが、利用者側が期待し、実際に受けたサービスへの満足度もその中核は不変とはいえ、それを彩るものは、社会思潮や利用者世代の価値観によって微妙に異なってきます。個人差があるとは思いますが、私が求めるこれからの療養病床について以下申し述べます。
まず、医師と看護師には、「高い医療と看護技術」を望みます。急性期医療機関がこれだけ短縮される傾向にあるいま、高齢者に対しても十把一からげ対応では冗談じゃあない!と感じています。が、次の行き先である療養病床がしっかり技術をもっていれば安心ですから、くれぐれも老人保健施設や特別養護老人ホームと一緒にならないでください。老人医療の確立はまだまだです。老人医療の砦を死守してください。
次はますますの「個の尊重・個別化への対応」です。現在さまざまな施設で個室化が進んでいますが、個別対応ほど観察や言語による〈情報収集〜分析・統合〜言語化〉の初期及び病態・状況変化に応じたアセスメント力は高度なものを求められます。個別化して理解してくだされば、自ずとケアプランも対象者に適ったものになります。対人援助の原点ですので、すべてのケアスタッフがアセスメント力をますます磨いてくださいますよう期待しております。高度なプロの技術を望みます。
最後に、たとえば自尊心が強く、堪え性のない私でさえも、自分の身体、下手をすれば精神をも委ねる相手に対しては注文(お願い)や苦情を控えがちになります。多少の我儘と身体と精神の苦痛による苦情とを察して吐き出させていただければと願っております。たくさんのお年寄りが、この点にいかに苦しんでおられたかを、嫌という程みてきましたので。そして他者に対する最高のエチケットを望みます。
折りたたむ...昨年の介護保険点数の改定後、介護保険病床の返上と、それにともなう医療保険への回帰が目立っている。介護保険の開始から、わずか三年あまりでこのような変化が起こることは予想されていたのだろうか。そもそも、介護保険は老人医療の中心となるはずだったのではないだろうか。平成十二年の春に向けて、介護保険病床が確保できないような事態だけは避けようとしていたころが懐かしく思える。お隣の札幌市では介護保険病床数はついにアンダー、つまり返上が相次ぎ新規申し込みもないということになっている。
介護保険病床と医療保険のそれでは、いくつかの大きな運用上の違いがあるにも関わらず、現場での医療・看護・介護行為には何の違いもない。それに加え、昨年の介護報酬実質ダウン、さらに医療保険の老人医療が廃止されるわけではない見通しなどを踏まえての動きなのか。
たとえば、おむつ代徴収の禁止。このことだけで、介護保険に踏み切れなかった医療機関もあると聞いている。また、重度身障者や特定疾患における医療費減免が適応されないため、患者負担が増大することも、患者サイドの不満につながる。自立・要支援患者の急性疾患がすべて一般病院の入院になるわけではなく、医療保険病床も確保しておかないと地域医療にならない。そこに、平成十五年のドラスティックな介護報酬改定である。病院がより重度の患者を診てゆくことの趣旨はわかるが、短期間で低介護度の患者を退院させざるを得ないような決断を迫られたのも事実である。
老人の専門医療を考える会のホームページに掲載してある医療機関の介護と医療病床の数を比較してみた。精神病床を除き、全医療機関では、一般病床は十四%、介護療養四十二%、医療療養四十四%と介護と医療病床はほぼ同数であった。次に規模により分類してみると、百九十九床以下では、一般十三%、介護療養三十七%、医療療養五十%。二百床以上では、一般十四%、介護療養四十四%、医療療養四十二%であった。また、回復期リハ病床の割合は、百九十九床以下では、医療保険病床の四十三%であり、二百床以上ではそれは二十五%であった。すなわち、中小規模の病院では、より医療保険を選択し、しかも回復期リハのように病棟の目的を明確に打ち出しているところが多い。
当院は百三十一床を三病棟で運営し、二病棟(九十六床)が介護保険である。このところの地域ニーズを背景に、回復期リハ病棟の開設を考えている。その際、いま医療病床に入院されている難病や重度身障患者に対して、「介護保険になるのでコスト負担が増えます」と説得するぐらいなら、もうひとつ医療保険病棟を作り、介護保険を返上しようと考えている。
行政の担当者は介護保険病棟に入院する患者ならびに家族の承諾書を取り付けることがその変更の条件であると通達してきた。また、介護保険には最低でも一年間は戻れないとも話していた。しかし、当院の介護保険入院単価は昨年に比べ二・七%ダウンしており、経営的な見地からも医療保険に戻ることを決めた。
介護保険制度を守り育ててゆきたいと願っていた私が、自ら介護保険を返上しようとは半年前までは思ってもいなかったことである。
折りたたむ...高齢者医療現場と向かい合って五年の歳月が過ぎました。そこには、単一疾患に対して最新のエビデンスやサイエンスの日本刀を振りかざし、辻斬り医療でご満悦だった私にとって正に別世界が広がっていました。
例えば、私の外来を定期的に尋ねてくる八十八歳の老紳士がいつも同じことを語ります。「足が冷えてね。先生は若いからわからないかも知れないけど、長生きをすることは辛いことなんだよ」と。初めて彼と出会った頃、私は様々な検査を勧め、あらゆる処方をしました。彼は辛抱強く付き合ってくれましたが、その問いかけは変わりませんでした。
勿論、彼には安堵の表情はありません。いつ頃からか私は彼の問いかけに対して「人生は修行の場ですから」と笑顔で返答するようになっていました。すると彼は、私に「頼んだよ」と言っていつも外来を去るようになったのです。最近では冗談交じりに彼の死亡診断書に記載するであろう主病名の話までしています。
私のようなどこにでもいる医者には、彼の心の中にある不安の闇を技術で救うことはできませんがハートがあります。心から共鳴しようとするとき笑顔の妙薬を処方します。ここに私なりの信頼関係が築き上げられて医師と患者の関係を超越した感情が芽生えてくる気がします。必然である死という終着駅が目の前に迫っている高齢者にとって、先端医療が必要なのではなく、誰に最期を任せられるかが重要なことだと思うようになりました。
高齢者医療に携わる者として、そこには三つの山場があると思います。
(1)老いを感じる初老期、(2)病期から立ち直ろうとしているリハビリ期、(3)死を受け入れる受容期、です。
冒頭の挿話は受容期にある人との絆の話です。その時期は、より宗教観に近く諸子百家が混戦を呈しやすい世界でありますが、私も青野教とも呼ぶべき死生観に磨きをかけておりサービス提供体制を整えています。
次に、リハビリ期に関しては回復期リハビリテーションを含め医療福祉の現場では最盛期を迎えようとしています。高齢者リハビリを実践する天本宏先生の下で修行している私としては、大川弥生先生提唱の目標指向型リハビリテーションプログラム的発想により「生涯リハビリオタク」を作らない社会が来ることを信じたいと思います。
そして今からは、初老期に対してのトライアルが私のライフワークと考えています。具体的には、初老期の体力(フィジカル・フィットネス)の開発を医科学的な知識をベースにスポーツトレーナーと協力して行い、健康度を回復させ、肉体年齢の向上まで実現させたいと考えています。
この事業は平成十二年に、当院の近くにある民間スポーツクラブNASとの提携から始まりました。当時、三分間診療の外来では生活指導の一環である運動療法に対して満足のいくサービスの提供など無理であると半ばあきらめていた私に、NASが場の提供をしてくれました。
この年より、私はメディカルフィットネスコースと称するスクールを担当する自称スポーツドクターになったのです。紆余曲折の末に今では水着でプールに入り利用者のヘルスチェックを行っています。生徒さんは私の担当する外来患者様が中心で、最高齢は八十七歳でピンピン飛び跳ねています。参加者の多くは健康上のトラブルがあり、その改善が目的ですが、体力レベルの向上もさることながら自覚症状の改善や投薬量減少のお土産つきの症例まで出現するようになってきました。
また、昨年からは別のスポーツ団体とより組織的な取り組みを始めるようにもなりました。保険財政に頼らず、自腹を切って健康をめざす高齢者の姿は民主導型医療費削減の夢まで私に見させてくれるような気がします。
折りたたむ...平成十六年度の診療報酬改定が決まった。薬価一%減、診療プラスマイナス・ゼロということで、ごく小幅な改定である。特に、老人医療に関しては、ほとんど影響がない。ただ、老人医療に対して社会の関心がまったく低くなったわけではないが、小児医療や精神科医療、そして急性期病院への定額化に焦点が当てられているということであろう。
最近の介護保険制度や老人医療に関する各種の情報を集めてみると、どう考えても厚労省の老人医療に対する考え方は、明確なビジョンもないし、制度全体をどのようにするかといった腹も決まっていないように思う。リハビリテーションの充実、個室ユニットケア、新しい痴呆性高齢者ケアの創造など「二〇一五年の高齢者介護」で示された内容は、ひとつの考え方として理解できる。しかし、現実には、平成十六年度予算編成時において、介護保険財政の国庫負担が重くのしかかり、厚労省予算全体に影響を与えている。今後とも負担増が続くことから、制度を維持するだけでも大切である。
厚労省の介護制度改革本部は、その第一回会議から「制度の持続可能性」を強調し「給付費の抑制」「要支援・要介護一と二が大きく伸び財政に大きな影響がある」「在宅と施設との間の不公平感」「ホテルコストなどの利用者負担」などと、財政対策が色濃くなっている。
はっきりしていることは、サービスの質の向上、痴呆性高齢者対策やリハビリテーションの充実には、財源が必要であるということだ。ただ、財政難だからといって、サービスの質を低下させることも、低所得者がサービスを受給できなくなることも避けなければならない。そこで、介護予防を強化して、要支援と要介護度の低い層と高い層を二区分して、高い層にサービスを重点化しようと考えることになるのであろう。
ただし、これは単なる机上の財政対策である。長期間要介護四や五である人々が、要介護状態から改善することは、かなりの困難がある。むしろ、要介護一とか二あるいは三の人々を、四や五にしないということが大切である。確かに四や五という状態の人々のケアは人手がかかるが、重介護に資源を集中投下するのか、それとも、要介護度が高位に移行しないことに集中するのかといったことは、そう簡単に結論が出るわけではない。
医療保険での高齢者医療に対する関心の低下、介護保険制度の暗たんたる状況というはざまで、新しい高齢者医療制度の模索も続けられている。ただ、これも単なる机上論で、案としてはどのようにも考えられるが、あちらがたてば、こちらがたたない式の利害対立に対して、調整力が発揮できるような強力な制度改正案を描ける有能な人がいない。
医療保険の世界から、老人の長期療養の一部を介護保険制度に移行させたものを、ふたたび新しい制度に統合することが、どのくらいのエネルギーを必要とするのか、逆に医療保険が急性期医療に重点を移しつつある中で、慢性期の療養病床を大量に取り込むことが、医療保険制度改正の重荷になることについてのリスクをどのように考えるのかといったことを考え合わせれば、単なる財政論の次元からの机上論では、もはや新しい高齢者医療制度を創造することは不可能であると考えられる。
我々に、介護保険か医療保険か、それとも新しい高齢者医療制度かと問われれば、「新しい制度」と答える。しかし、その前提は、専門医療の実践の上に構築されることであり、質の向上が目的である。あまりにも財政論的視点からの老人医療制度改革では、遠くもみえないばかりか、足元さえみえなくなってしまうことだけは避けて欲しい。
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