老人医療NEWS第69号 |
老人保健法の施行で高齢者ケアについて感心が高まっていた昭和五十八年に「老人の専門医療を考える会」が結成されたと聞いている。数名の発起人達が「過剰な診療をやめる」「医療法等の医療関連法規を遵守する」「入院設備、食堂など施設を整備する」「ソーシャルワーカー、理学療法士・作業療法士を積極的に採用する」「老人の人権を守る」と宣言し、付き添い看護を廃止し、介護職員の院内化や投薬等の適正化を進めた。今から二十年前のことである。
この活動は厚生省(現厚生労働省)に対し介護力を強化した包括点数の設定の要請につながった。そして平成二年四月に特例許可老人病棟入院医療管理料が制度化された。この制度を採用した病院の看護・介護業務は大きく変化し、注射、投薬、処置等の診療補助業務は減少した。かわって食事、入浴、排泄さらに移乗・移動の介助など療養上の世話業務が急増することとなった。当然のことながら看護職員数の増加は必須となった。
さらに病棟内居住環境が問題となった。職員数が増加し、車椅子使用患者が急増したことから、病室や廊下は狭くて動きにくく、食堂、デイルーム、浴室、トイレの整備も必要となった。こうした経緯で療養型病床群の制度が生まれた。
この結果、入院患者の状態が改善したという報告は枚挙に暇がない。付き添い看護に依存し、注射や投薬をするより手厚い看護・介護と療養環境の改善が優れているということが立証されたのである。そして、これらの変化と同時期に計画を立ててケアを行うことが日常化していった。ケアプランである。
さらに、こうした老人医療の変革の立役者達は、入院医療の改革に止まらず、在宅ケアの推進へとつなげた。すなわち、付き添いの廃止、看護職員の増加、療養環境の改善、ケアプランの策定、そして在宅ケアの推進へと進んでいったのである。筆者はこれらの活動を極めてリハビリテーション的もしくはリハビリテーション的な活動だと感じている。日陰の存在であった慢性期の老人医療を表舞台に立たせた活動であり、「老人の専門医療を考える会」の原則である「老人の人権を守る」を貫こうとする活動と思えるからである。
こうした「老人の専門医療を考える会」の活動も、介護保険法が施行され三年半が経過し、新たな原則を構築する時期ではないかと考えている。自立支援の活動を全面に押し出さなければ、要介護度は高まるばかりである。名実共にリハビリテーション重視の時代を迎えている。ケアとリハビリテーションは表裏一体であり、リハビリテーションの理念と実践活動を抜きにして良質なケアは云々できない。
現在の「老人の専門医療を考える会」のテーマは「痴呆」と「リハビリテーション」であると考えるが、本会の創設当時に変わる画期的な新たな宣言をおこない、今後の十年間の実践活動の目標としてはいかがであろうか。
折りたたむ...ISOか病院機能評価か、あるいは両方かという議論がある。平たく言えば、ISOは目標設定を自分たちで定め、クリアするようにする。一方、病院機能評価は最初に目標設定がなされ、それらをクリアできるようにする。従って、極端な話、ISOの目標設定を病院機能評価のそれより低く設定すると、ISOでよしとしても病院機能評価ではよしとしないことがあるわけで、それならば病院機能評価でいこうという具合になる。
株式会社で行われる監査において、内部監査と外部監査がある。内部監査は企業の内部組織が経営管理目的のために行う監査を指す。監査とは元来帳簿記録と実際の状態の照合、例えば使途不明の使い込みの発見など財産の保全を行うものであるが、内部監査の場合、経営管理に役立つよう資源の効率的な運用の監視・機能評価(業務監査 会計監査以外の監査)も含まれている。監査役監査も法的な立場に立てば、監査役は株式会社の組織をなしているので、内部監査に含まれる。
外部監査は企業の外部者が行う監査で、内部監査に対応する。具体的には公認会計士監査(証券取引法)を意味している。この監査は財務諸表が適正に損益及び財政状態を表しているかどうかの見地で行われる(適法性監査という)。但し、公認会計士は商法上、会計監査人として株主のための適法性監査も行うが、これなどは法的には内部監査と言える。以上は会社法に基づくが、大会社(資本額五億円以上又は貸借対照表上負債額合計二百億円以上の株式会社)はすべて該当するが、小会社(資本額一億円以下の株式会社)にはすべて適用されるのではなく、例えば監査役について言えば、小会社での職務権限は会計監査に関するものに限定される(業務監査は含まれていない)。
現在、申込みから一年待ちとされるほど各医療機関が病院機能評価の申請に殺到しているが、果たして病院機能評価とは会社法で言えばどんな位置付けになるのだろうか。
我が国の医療機関を会社法上の株式会社に仮に置き換えた場合、多くは「小会社」の範疇に位置付けられよう。上述のとおり、小会社の場合、監査役の職務権限は会計監査に関するものに限定され、業務監査は含まれていない。病院機能評価は業務監査の色彩が濃いように思われ、その意味では小会社の業務監査の代理に当たる存在ではないかと考える。また、「大会社」における社外監査役の役割を果たしているとも考える。
会社法でも相次ぐ不祥事から、監査役職務権限の強化がなされており、特に経営管理上の整備が遅れていると言われる医療サービス業においては、病院機能評価の実質的な「評価」権限の拡大は将来的にもっと図られると考えたほうが賢明である。
折りたたむ...先日九十七歳の女性が自宅で亡くなった。老衰であった。特に他には問題はなく老化と共に衰弱し、在宅での看取りを希望していたため、平成十四年秋から往診を始めた。
本人はやせ、体力が徐々になくなってきてはいるが、呆けているわけではなかった。話しはニコニコと明るく、往診に行くと楽しそうな声で話をし、「ありがとう」とかん高い声で挨拶をしてくれる。食事はほんの少量ではあるが、毎日自分で食べていた。また二階の室内の隅に置いてあるポータブルトイレまでは、ゆっくりだがなんとか歩き、自分で排泄は行えていた。
この家族は九十七歳の本人の他、主介護者である娘さん夫婦と、娘さんの弟さんの四人家族で、酒屋を営んでいた。下町にある古い建物で、小さな店の奥の居間を抜けると狭い台所の横に、はしごのような階段があって、そこを昇った二階でひっそりと暮らしていた。
往診当初、足がむくんでいた。「足がむくんだら死ぬ、と昔の人はよく言っていた」と娘さんが当時興奮して言っていたが、その勢いであわてて通院先の担当医に相談して、早々に当診療所に往診を依頼したのだそうだ。幸いすぐに亡くなるような急激な変化はなく、ほとんど臥床か床に座り込んで一日が過ぎていった。
そして一年が経過したこの十月に急に足が立たなくなり、背部には褥瘡が出来始めた。一旦は持ち直したものの食事が飲み込めなくなりだし、介助でなんとか食べ数日が経過したが、三週間程経ったある朝息を引き取った。
この老人の死はいわゆる大往生の話ではある。しかし同じ頃から娘さんのご主人の行動がおかしくなりだした。どうも呆け出したようである。徘徊したり外で酒を飲みまわったりするようになった。また肺癌の疑いがかかり、入院して体中の検査をした。結果として異常はなかったようだが、入院中に病院を抜け出してしまい、探し回るようなこともあって、娘さんとしてはかなり夫のことにも気を取られていた。その夫の病状の悪化に加えて母親の容態が悪化しだしたのだ。
娘さん自身七十歳という高齢であり、酒屋という商売のこと、夫の体調のこと、そして母親のことが重なり介護で夜も寝られず疲れ果て、精神的にも肉体的にもこれ以上は耐えられないほどの限界に達していたという矢先に母親が息を引き取った。
九十七歳、大往生と言えば大往生ではあるのだが、娘さんにすれば一生懸命に看ていたが、急に息を引き取ってしまったので、自分が至らなかったのではないか、と悔いていた。そこで、肩を落としている娘さんに、これまでの経験を交えて話をした。
「やっとの思いで一致団結して動いている家族に、危機的な状況が一度に起こった時、まだこれから生きなければならない人を残して、一番手がかかる人が自然と先に身を引くことがある。これは理屈では説明できないが、娘さんがご主人の世話をしなければならないことがわかって、九十七歳の母親が先に身を引いたのだと思う」と。
それまで泣き崩れ、「昨日まではなんとか食べてたのに」、と悔いた話しをしていた娘さんの口から「先生にそう言われてなんだかわかるような気がする。精一杯看てきたのだし、そう言ってもらえて自分が救われた」との一言があり、ほっとした表情に変わり、母親に「ありがとう」と何度も言っていた。その後はいつものように家族と共に死後の処置をした。
まだ医者としても若造ではあるが、人生の最後までをも地域で診ていく経験を沢山させてもらい、そして少しは人が安心できるような言葉かけができるようになった自分を「お前も医者らしくなったんだ」と認めてやりたい。
折りたたむ...診療報酬引き下げの大合唱がはじまった。厚労省用語でいう「診療側」としての我々は、どうすることもできないので無関心というか、正直いって無視している。金の切れ目が縁の切れ目というのであろうか、金がないからダメですといわれれば、それではバイバイというしかないのか。
平成十二年の改定は、すさまじいものであった。金がないからという枕詞で、やってなければ減算、手術件数が少ないと三割引き、再診回数逓減制とか、選択療養制というおまけまでついた。厚労省の一昔前の常識は「金がないと改正はできない」というまっとうなものであったが、最近は「金がなければ悪知恵を出せ」といわんばかりだ。
それにしても、診療報酬制度から自由でないのが老人の専門医療であり、病院経営であるというのが現実である。ただ、前回の改定や、介護報酬改定によって、老人の専門医療の質は向上したかのといった議論をしてもらわないと「金がないからガマンしろ」といっているようにしか聞こえない。
企業経営の世界では、この不況に対して、企業の生き残りのためには進んでリスクを取り、日々変革を続けることが必要だといわれている。確かに、我々のような病院経営でも日々改革を進めないと、組織がダメになってしまう。そのための努力は続けているものの、はたして変革さえすればよいのかというと、変革によって成功しなければならないという前提というか、目的があることがわかる。
何をいいたいのかといえば、どう考えても、二年に一度必ず診療報酬を改定しなければならないのかということが、正確に理解されていないといいたい。診療報酬を引き下げるのであれば、一律一%引き下げというのもあるだろうし、前年対比で一律減額というのもあろう。
改定をするとなると、どこかの部分を大幅に変更しようとするのが常であり、その改定自体が失敗であったとしても、責任を取るわけでもない。マイナス改定という業務をやってもおもしろくもないだろう。何も悪知恵ばかりではないにしても、マイナス改定で、医療の質は向上するなどということは、およそ経済学のABCに反するであろうと思う。
そこで、どのようなことが可能であり、不可能なのかを明らかにしておきたい。
第一に、低所得者の入院医療については、国として最低限保障することが、絶対必要である。入院医療が必要であるにもかかわらず、金がないので入院できないということになってはならない。
第二に、老人医療についての当会の基本方針は、診療報酬の包括化に賛成、ただし看護・介護職員については、最低二対一以上必要というものである。
第三に、老人の専門医療の質が向上するためにも、なんらかの方法で診療側が価格決定できる範囲を拡大して欲しい。方法としては、特定療養費や選択療養を拡大するとか、介護報酬上の上乗せ、横だしの部分を入院医療に限って拡大することが望ましい。一般に高齢者の経済状況は豊かではないが、他方で現在の入院サービスの質に満足せず、多少の負担であれば、質の高い方を望むという人々もいる。
第四に、引き下げるという議論であれば、制度を急激に変更しないで欲しい。なぜならば、改定に対応するたびに、我々は多大なエネルギーを消耗するからである。少なくとも前向きに老人医療の質の向上を願っている我々にとって、このような消耗は、職員の士気を害する。
以上のようなことは、診療報酬改定における、基本中の基本だと思う。関係者の一層の努力に期待したい。
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