老人医療NEWS第68号 |
今年二月、スウェーデンの痴呆ケアに関する研修会に参加する機会を得た。面積は日本の約一・二倍、人口約八九〇万人を有している。高齢化率は十七%余り、子供と同居している高齢者は約四%と低い。女性の就業率は九十%超、国会議員の実に四十五%を女性が占める。
国土の四分の三が穀倉には不向きの森林で、冬は氷雪に覆われるという自然背景と、十九世紀末には飢饉で当時の人口の四分の一に当たる百二十万人もの国民が米国に移住せねばならなかった欧州の最貧国であり、二十世紀にはロシアとドイツの脅威を目の当りにしてきた歴史的背景がある。国民の間に、連帯感やどうしたらみんなが幸福に暮らせるかということを、否が応でも考えさせ、結果として福祉先進国にならしめたであろうことは想像に難くない。
さて、研修会はストックホルムの「シルビアホーム」という非営利財団経営のデイケア中心の施設で行われ、第一人者であるバルブロベックフリス教授の指導を仰いだ。
広い庭を擁するこのホームには主に中・重度痴呆の方が入所している。デイケアは一日最高六人で、五人の職員がケアする。利用判定は市が行う。そこでは、回想療法とバリテーション(共感療法)の両方を実施していた。ケアの基本は、何よりも利用者が楽しんでいることが大切と言う。これは遠く離れたオーストラリア・タスマニアのアダーズナーシングホームでも同じ理念である。
食事については色のコントラストが重要で、テーブルクロスの花柄模様は食べ物と混同しやすいこと、あるいは床などに黒線を引くと距離感がなくなったり深い穴に見えたりもするので、避けるべきとの話もあった。痴呆の方に対する適切な色の用い方にも感心させられた。
同じ痴呆であってもグループホーム内では前頭葉障害者とアルツハイマー患者の同席はお互いに混乱を来すので注意を要すること、そしてアルツハイマー患者にはその病名を告知している。何故なら現在はその進行を遅らせる効果を持った薬も増えているからとのことであった。
印象的だったのは、従来、合併症のある末期の痴呆患者への「治療」は余り積極的でないと感じていた欧州で、最近は積極的治療をという風向きに変化しつつあるということであった。職員教育にも力を入れており、高齢者を好きな人を職員にしたいと語る一方で、近年若い世代が介護の仕事に就きたがらないと嘆いていた。「高齢者医療や介護の日本化」とも言うべきか。
ともあれ、痴呆高齢者への医療や介護で重要なことは、国民的合意に基づくターミナルケアのガイドライン作りであるとの教授の話に大きく頷かされたのは言うまでもない。
個人の功績を後世の社会に還元したいというノーベル博士のように、人類に立ちはだかる「痴呆」という病に対峙し、将来少しでも役立ちたいとの思いを新たにした。
折りたたむ...先日、あるシンポジウムを開催したが、その席で急性期特定入院加算病院の院長が、「自分たちは下請けです」と明言していた。急性期医療と慢性期医療と、少々使い古されてしまった感があるが、少し私見を述べてみたい。
急性期医療の役割が「命を救うこと」とするならば、慢性期医療のそれは「人生を救うこと」であると私は常日頃云っている。再発予防、維持リハ、療養、介護、ケアなど様々な職務表現で言い表されるが、慢性期医療の役割、そして私達の生き甲斐は、やはり「人生を救うこと」ではないだろうか。もっとも、「救う」と云うより「見つめる」と云った方が適切であろうが。
先の院長は明言されたが、どちらが上でも下でもないし、どちらが主でも従でもない。一般急性期医療の中では、生命を救い疾病を治すために様々なことを試み、必死に日々戦っている。手を緩めることは生命に関わることとなる。慢性期医療においても、人生を損なうことがないように、人生の苦悩を少しでも軽減できるように、可能性を模索し、一生懸命に日々戦っているはずである。
急性期医療のオペレーションは綿密な事前の病態診断やリスク分析等に基づいて外科的手術、薬物コントロール等を取り組み、事後のリカバリーを経て生活に復帰する。慢性期医療のオペレーションは損傷や機能障害、さらにはハンディキャップ等の綿密なアセスメント診断、リスク分析に基づき、生活の場を自宅に移す退院を目指して課題解消軽減に向けた様々な治療ケア、即ち期間をかけた手術が始まる。そして退院直後のリカバリーを経て実人生を再び歩み始めるのである。
この様に比較してみると、私達は退院という手術に対してどれだけ事前の分析をしているだろうか。入院時のアセスメントはどこまで診断価値がある内容だろうか。オペチーム全員にこれから目指すイメージが描かれているだろうか。本人、家族、近隣のケアギバーやリカバリー後のケアチームを、いつの時点で私達オペチームは理解把握できているだろうか。
確かに様々なフォーマットで分析資料は内容が埋められていくし、カンファランスも進められていくが、早々簡単に手術は成功しない。何度となくADL、IADLリハケアを繰り返し、継続して試験外出外泊という評価、検査を行ってみる。多くの場合、その検査結果を判断するのは家族である。とするならば、その家族が前回と比較判断できるだけの資料を私達は提供できているだろうか。
繰り返すが、人生を見つめる私達は病状の変化に応じて急性期チームにその改善を託すが如く、命を見つめる急性期チームはその人の人生が豊かであるように慢性期チームにその改善を託すのであろう。それに応えるためにも私達は、社会的にも幅広い知恵や障害を克服する技術を身に付け、日々の安心ケアに留まることなく、人生を救うための様々な試みや模索を惜しんではならない。
折りたたむ...訪問診療を始めてから十四年が経った。そのおかげでたくさんの経験や人生勉強をさせてもらっている。外来や病棟での仕事も無論いろいろな関わりや出会いがあり経験もするが、家庭の中に入っていくことで、病院内で仕事をするより医療以外の部分への関わりも濃く、ご家族からの相談ごとも多岐にわたり、その分ご家族との関係が密になっていく。
もちろん医療の部分も、特に在宅ターミナルケアの場合は老人病院ではなかなかお目にかからないような病気の方をお引き受けすることもしばしばあり、新しい医療器具や薬を使用している場合などとても勉強になる。ターミナルケアは最終的には全身管理となるので、普段は自分の守備範囲外の婦人科や泌尿器科などの病気でも勇敢にお引き受けすることになる。(余談になるが、今まで訪問の依頼に対して地理的な理由以外でお断りしたことがないのが自慢である。)
「自宅で、畳の上で死にたい」と言われた方に精一杯の取り組みをしてご家族と共に無事に看取ったときは、病棟では得られない充実感を感じる瞬間である。在宅の場合は医療器具などそろっていないため苦労も多いが手ごたえも大きい。
最近は訪問診療も普及してきたが、私が始めた当時は実際患者さんが自宅でどうやって生活しているかなんて考えもしない医師も多かったと思う。私も今考えるととおりいっぺんの指導まがいのことをしていた。しかし訪問を始めてからは、医師や看護師のいない家庭で夜間にこんなことが起こったら、休日にこんなことが起こったら、と先回りしていろいろな場面を予測し、ここのお宅ならこの辺のところまでできるだろう、いやここまでで無理だろうなどとその家庭に合った対応策をこと細かく考え、説明するすべも身につけた。
充実した在宅生活を長続きさせるためには、その方に合わせたサービスの利用、二十四時間の医療の保障、連携など不可欠な要素はいくつもあるが、たくさんの家庭を見ていると「介護者」の性格や判断で在宅生活がつまらないものになったり、充実したものになったり、患者さんの人生までもが左右されることが往々にしてあると感じている。細かいことによく気がついて早め早めに連絡を下さる介護者はいいが、それが度を超して少しのことでも心配の種になり、大騒ぎして患者さんも落ち着かなくなることもある。
嫁がいいか娘がいいかという議論(?)もあるがこれは善し悪しである。嫁は冷たいとされているが冷静に親のことを見られるので判断が的確な場合が多いのと、面倒を見てもらう側も多少の遠慮があり自分でやれることはやろうと頑張る。しかし、病前の関係が悪いと仕返しをされる危険がある。
娘は甘えられて良いと言われるがお互い好きなことが言える分容赦がなく、性格が似ている場合は衝突が多い。娘の夫に遠慮して過ごさなければならないこともある。
親身になって面倒を見てくれるのは配偶者であるが、年齢が近く自分のことで精一杯になっている場合も多い。いずれにしても多少のことには動じない明るく前向きな介護者に恵まれればそれは本当に幸せなことである。
患者さんの中には十年以上訪問している方々もある。時には親子げんかの仲裁に入ったり、定年を迎えた介護者である息子さんのボランティアの口を紹介したこともあった。あるいはお孫さんの受験の相談に乗ったり、エアコンの調子を見たりと、私もなかなか忙しい。
あまり道路など知らなかった私が裏道の通と言われるようになったのも訪問診療のおかげで、渋滞も何のそのの毎日である。
折りたたむ...もうすぐ、介護保険制度改正のための本格作業が始められようとしている。その前哨戦が平成十六年度の診療報酬改定の中の、医療保険療養病床への評価ということになろう。
介護保険制度の改正は、大きな議論になりそうでもあるが、最終的には、ほぼ現行システムのままということになるかもしれない。周辺では、介護保険の四十歳以下への拡大とか、リハビリテーションの強化、それに個室ユニット・ケアなどが論点のようだ。しかし、最大の論戦は、費用問題だ。
ケアの質とか、患者さんのQOLとかという議論に対して、財政というか金の論争は、結局不毛なのだがわかりやすい。もっと欲しいという側と、そんなに支払えないという、なりふりかまわない二者択一的論戦も演じられるのであろう。
我々は、介護保険制度が悪いとか、国全体の負担をどうするのかといったことについて、必ずしも明確に理解しているわけではない。ただ、介護報酬改定とか、利用者負担の変更ということにより、利用方法や利用者の選択が左右されることについては、明確に認識している。
厚生労働省は、二十年前から、長期入院の是正、社会的入院の解消といったことを医療費抑制策のスローガンとしてきた。そして、社会復帰、家庭復帰のための施策という美名の下に、各種の制度改革を行った。しかし、それらが本当に役に立ったのかという政策評価にまったく答えていないではないか。
最近の回復期リハビリテーション病棟からの家庭復帰は、政策的にも意味のあることは確かだ。しかし、ここまでのことを制度化するのには二十年以上、正確には理学療法士法、作業療法士法ができてから、すでに三十八年の年月がかかっているのである。そして、このことに気をよくした老健局は、全面的にリハビリテーションを評価しようとしているように思う。
だが、ここでどうしても主張しておかなければならないことがある。それは、どうしても退院できない患者がいるということである。どんなにリハビリテーションの資源を大量投入しても、長期療養とならざるをえない人々である。そのために特養とか老健、そして療養病床があり、在宅ケアがあるのだ。ただ、適切なリハビリテーションもしないまま、長期入院させたために、家に帰れなくなってしまうということはある。
正確なデータはないが、介護保険制度施行前後で、この長期入院入所者が増加しているように思えてならない。特に、老健施設がひどい。
老健の入所者とその家族は、一度入所すると退所したがらないという。職員が家庭復帰のための指導や住宅改造のアドバイスをしても「かえって費用がかかるのですね」といわれ結局、長期入所になる。
介護保険制度では、ケアマネジャーが、利用者の希望をよく聞いて対応するようにいわれるが、家に帰るという希望は多くはないようだ。本人が帰るといっても、家族がもう少しといって、どちらの話を優先させるかが問題となる。
かくして、家庭復帰は、サービス提供者が、確たる使命感で対応しない限り難しい。このことは、特養でも病院でも同じことだ。
何を言いたいのかというと、介護保険でも医療保険でも同様だが、強力な家庭復帰促進施策と、どうしても家庭復帰できない人々への施策をバランスよく実施して欲しいのである。
どう考えても、在宅療養するより、施設入所のほうが安いのはおかしいし、施設側の退院への努力も十分に評価がない。そして、長期入院以外望めない患者は、評価されない。家庭復帰促進策を真剣に考えよう。
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