老人医療NEWS第60号 |
介護保険制度の浸透や、今年十月からの診療報酬改定の先取りもあってか、このところ、いわゆる老人病院への入院患者の重症化が目立つ。
共通しているのは、八十歳以上の高齢者が大部分であること。大病院で、気管切開をうけたり、IVHや経鼻管栄養、膀胱内留置カテーテル等、複数のチューブを入れられた状態で、二〜三ヶ月以上経過していることである。複数の褥瘡を持った患者も珍しくない。
以前の私達であれば、この状態を何とか維持することがやっとであったが、最近は、このような高齢者でも元気にする術をすこしずつ身につけてきた。
私達がまず最初にやるのは、点滴であれ、経鼻管栄養であれ、体内に注入される水分や栄養分の量を絞り込むことである。これだけで、心臓や腎への負担も軽減され、酸素吸入や強心剤や利尿剤の投与が不要になるケースが少なくない。
これ等の作業と並行して、寝たきり状態からの離脱をはかるべく上体をおこし、頭の位置を少しでも高く保つこと、同時に身体を徹底して磨くこと、頻回に皮膚をマッサージし、話しかけること等に努める。
同時にこの過程で、チューブを積極的に抜くことを試みる。
チューブを抜けば、かかる手間は一気に増える。誤嚥の危険に注意しながら、その都度体位を整え、食事はゼリーで固めたり、トロミをつけたりして嚥下しやすい形状にし、しかも味に変化をつけて、少量ずつ何回にも分けて食べてもらう。あるいは、いろいろなタイプのオムツを組み合わせ、頻回にチェックや交換をくり返し、不快感を少しでも減らすといった具合である。
先般、脳梗塞で入院中の九十四歳の女性が、癌による腸の完全閉塞を起こしたため、家族と協議し、近くの大病院で人工肛門造設術を受けた。
術後、ショック状態となったため、気管切開のうえ人工呼吸器を装着、いやがって手でIVHや人工呼吸器をはずそうとするため、両手首拘束となった。この頃より日を追って心不全症状が強くなり、話しかけにも反応低下、手術創部の膿排出もみられ、このままでは予後不良が明らかであったため、家族の希望もあり、急遽当院でひきとることとなった。
その後行ったことは、一日一五〇〇tの高カロリー輸液を、通常成分の補液五〇〇tにかえ、同時に経鼻管栄養九〇〇tを中止、あとは前述の如き対応を徹底した。一週間もしないうちに人工呼吸器は不要となり三週間後には、経口摂取、会話も復活し、手術創もきれいになり、現在家族と車椅子での散歩が可能である。家族からも奇跡が起きたとの評価をいただいている。
私達の役割は、一般病院や他の場所でみんながあきらめた高齢者を生き返らせることである。周囲に奇跡が起きたと思わせる症例を積み重ねていくことである。制度や診療報酬上の損得を論ずる時間があったら、奇跡をおこすことに全力を注ごう。今こそ老人病院は楽しい。
折りたたむ...二月のある日、市町村から当院の介護保険病棟(痴呆療養病棟)で起こった転倒事故の事故報告書に対する質問書が届いた。
『この転倒は疾患等による(防げなかった)ものなのか介護上の工夫による(防げた)ものなのか原因を解明せよ。「病棟入院時に家族への説明は済み(転倒の危険性について)。入院後二度の転倒があり家族へその都度電話連絡、説明した」と記載あるが、入院後二度も転倒した事について施設側がどのように説明し家族がどのように理解したのか(略)基準省令にもあるように家族に転倒の危険性の説明のみだけではなく、場合によっては損害賠償を行わなければならない。』
今、冷静な頭で読み返してみると、役場には役場の立場があって、こう書かざるを得ないとも思えるが、当時は「現場も知らないで何を言っているのか?法定定数以上の職員を配置し抑制はずしに取り組んで、頑張っている職員にこれ以上どう工夫せよと言えるのか?徘徊の激しい痴呆性高齢者の転倒をすべて防げというのならまた身体拘束の悪幣に戻る。『抑制外し』の途上にある施設にこのような質問状が届いたなら、きっと不安に陥れてしまう。」とカーと頭に血がのぼってきてしまった。
弱い立場にある家族を守ろうとする市町村の立場も気持ちもよく理解できる。しかし、まだ発展途上の介護保険制度や限られた資源(人、物、金)の中でより良い老人医療や介護を創りあげていくためには、家族、施設、そして行政が互いに信頼関係を築き手を取り合う事が必要なのではないか。被害者意識や批判、不信の中からは自己防衛のみが働き、良いケアは生まれないのではないか?
介護保険法では保険者である市町村への事故報告書の提出が義務付けられているが、沖縄県ではその提出が非常に少ないと聞いている。事故がおきてしまった時、職員も管理者も落ち込んでいる。その中でなんとか次の事故を防ごうと事故報告書を書き、知恵を絞って検討するのだ。行政側もその気持ちを理解し、共に事故を防ごうという立場で言葉を選んで欲しい。市町村の対応次第では、事故は反対に隠され、事故防止は進まないのである。また、施設側も時には心が痛むあるいは頭に血が上るような対応を受けたとしてもきちんと事故報告を出し、他施設とも連携をとって、自己のケアを振り返っていきたい。そして、市町村と施設の連携の中で「施設内で防げない事故もあること(自立高齢者が自宅で転ぶ場合もある)」を御家族に理解してもらう事、そして御家族も変な遠慮をせず意見を言える環境をつくり上げていきたい。家族も蚊帳の内に入れるようなケアプラン作成を考えていきたい。一歩進んで考えるなら、(十分な職員教育をした上で)この法定定数の職員配置でどこまでのケアができる(望む)のか?身体抑制なしで転倒事故を最大限防ぐために赤字保険料からどこまで施設ケアにお金をかけられるのか?あるいは、自分達の望む介護を受けるためにどれだけの介護保険料の負担ができるか?このような事を市町村、施設、家族または国民が協力して検討する時期にきているのではないかと思う。
折りたたむ...最近うちの診療所で出費を減らそうなんていう試みが出てきました。不思議だなと思っていたら、会議に出た若いスタッフから、「こんなに全部の数字を見せられたらやっぱり無駄を無くそうという気になりますよ」というなんとも単純な答えが返ってきました。
実は最近、当院の組織替えを少し行ったのです。その大きな柱はお金の流れをすべてオープンにするというものと、理事長の任期を一期4年、最大2期までとするものです。誰がいくらもらっているかとか、診療所が毎月いくら利益があって、こうした利益からボーナスが出るんだなとか、いろいろなことをわかりやすく話す会議を公開で行うことにしたのです。もちろん出席するスタッフ全員に発言権はありませんがそれぞれの地区の代表者が集まって病院内のいろいろなことを話しています。スタッフの中で関心のある方はオブザーバーで数名参加してくれています。またそういうスタッフが参加しているといいことは、みんながうそを言わなくなることです。いろいろありましたが、よかったな思ったことは、妙なかんぐりが少なくなったことです。少しキザですが、信頼感というのはオープンの裏返しなのかなと思えてきました。
今、医療改革なんて言っていますが本当に国民が信頼してくれる医療制度を作れるのでしょうか。医療事故の問題や医療費の問題、医療保険の問題等、問題を挙げるときりがありません。でもよく考えてみるとすべてに言えることは透明性、とかガラス張りといわれているようなオープンなシステムを作り上げることなのかも知れません。
たとえば医療事故にしても医療が一〇〇%の確実性でおこなわれるなんて思っている患者さんはいません。人間のやることに間違いはつき物、だけど、「私の先生は親切丁寧にやってくれる」とか、「一生懸命やってくれる」みたいなことを信じて命を預けてくれます。さらにたとえ間違ったとしても、ハムラビ法典のようなことはしません。許してくれるのです。このことに医療人はもっと真剣に答えなくてはいけません。間違ったときに、ごめんなさいは人間として最低のルールです。正直に誠実に謝るべきです。
医療費の問題だってそうです。まずは無駄を省く、これから始めるべきです。たとえば患者さんが全額自分の貯金から医療費を払うとしたら、レシートをきちんと作ってお渡しすべきです。レセプトの開示は当たり前のことになりますし、その元帳になるカルテ開示も当たり前になるはずです。すごく当たり前ですが明朗会計が一番信頼されるでしょう。
とはいっても国民皆保険制度はよくよく考えるとすばらしい制度です。しかし競争の原理がありませんし、やはりお役所的で、ある公立系病院のサービスはよくないとも聞いています。この際健康保険制度そのものを民間にオープンにしてたとえば自動車保険の強制保険と任意保険みたいにしたら少しは保険会社の景気もよくなり雇用も生まれるのではないでしょうか。いつまでもクローズドにしていると、そのうち国民は社会保険制度の無駄に気づいちゃうぞ。(2兆円もあるってほんと?)
折りたたむ...平成十四年度の診療報酬改定は、厳しいものであった。こまかい改定内容はともかくとして、社会的入院の解消と医療機関ベットの総量縮減、そして中小民間病院に対する介護シフトということが、厚労省の本音であるということが、よくわかる。
社会的入院の解消は、長年の検討項目であったことは確かであるが、一八〇日でスパッと切ろうという思い切りの良さは、それはそれなりにひとつの考え方であると思う。問題は、医療保険と介護保険の療養病床に何らかの区別を設定しようとする考え方自体に、現時点での現場感覚とのギャップが生じていることである。
最近になって明らかになってきたというより、多くの医療実践者がうすうす気づいているように、厚労省は介護保険制度施行以降の老人医療全体の展開について、なにもビジョンを持っていなかったことは明らかである。いろいろなアドバルーンを上げてみても、何も動かないし、介護保険制度の準備やその後の運営で疲れ果てて、新しく、元気のある政策を考えられない状態であろう。
ただ、病床の総量縮減という考え方は、もはや決定されており、あまり圧力はかけられないが、中小民間病院がドタバタと倒産して政治問題化しないようにするために、どうするのかを考えているに違いない。
どこでも、だれでも、いつでも最高の医療を受けられるのが理想だが、そのような国があるわけでもないし、そもそもの考え方にも差があるのが「普通の国」であると思う。ただ、明治以降の中央集権的、官僚統制国家という奇想から、わが国はいまだ自由になれないのは、あまりにも不幸なのではないであろうか。
国民一人当たりGDPは世界一位であるのにもかかわらず、国際的評価会社からは、国の信用度を半月ごとに引き下げられ、ついに日本国がこれらの民間会社にクレームを付けるということさえ起こっている。だいたい格付け会社などという集団を、国が相手にすること自体、ばかばかしい。
本当は「金はあるが、わかりにくいし、フェアーじゃないですね」といわれているのではないかと思う。
これまで失敗を重ねてきた医療制度改革は、民営化、自由化、規制緩和という三原則以外に選択がなくなってきていると正直に言われた方が、スッキリするし、対応方法を考えるエネルギーにもなる。しかし、「なんとかします、ご迷惑は最小限にしますから、しばらくお待ち下さい」といわれて、それを信じていたら、もっとひどいことになったということだけは、やめて欲しい。
低所得者に対する医療や介護について、国が責任を持って対応することは、当然のことであって、この責任すら放置するのでは話にならない。しかし、それ以外のことについて、なんでもかんでもルール作りを進め、医療全体をコントロールすることは行政にも無理だし、医師会にもできないことである。
サービスの売り手と買い手がいて、双方が最適な環境下で、適切な選択ができる社会が必要である。老人医療についても、まったく同様であると思う。われわれは、介護保険制度に反対したわけではないし、今後とも反対するつもりはないが、いわゆる介護シフトを進めるために、小出しの政策展開をするより、介護シフトが進むような最適な環境創りをすることを厚労省に願いたい。
病床の総量縮減が必要なことは、だれの目にも明らかであり、介護保険サービスの質的向上についても同様である。そうであるのであれば、一般病床から療養病床や転換型老健施設への誘導などということではなく、真に老人の専門医療を実践したい人々に、実践可能な人に、なんらかの方法で資源配分を多くすることの方がはるかにわかりやすいし、一般病床の総量縮減に寄与するはずだ。
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