老人医療NEWS第61号 |
平成十一年国勢調査によれば、人口総数一億二千六百万人で六十五歳以上の人口は二千百万人(十七%)であり、そのうち七十五歳以上の人口は八五〇万人である。一方、同年一年間の死亡総数は九十八万人余りで、そのうち病院が七十六万人(七十七%)で、自宅での死亡は十五万人弱(十五%)にすぎない。
当法人グループの施設群の一つにケアミックスタイプの施設がある。病院(一般三十六床、回復期病床百六十七床)・老健(一五〇床)・特養(百床、二十名ショートステイ)が同じ屋根の下、廊下続きで結ばれている。そこでの傾向は、老健や特養で肺炎や骨折等の病気で急性増悪期になると、医師の判断で当然の事として一般病床に転床する傾向が大であった。結果としてこの三施設群の最終の死に場所は、病院の一般病床が主であった。最近は家族と相談して、なるべく場所を移さずに(老健や特養で)看取る様に努めているが…。
そこで、一般病床での死亡の内訳を過去一年遡ってレセプトより割り出してみた。そうすると、驚くべき事実が判明した。死亡者の半数以上は、家族の意向―医者の安易な判断もあろうが―で延命治療を望んで一般病棟に転床していたのである。社会復帰を前提とした本当の救命治療の結果、やむなく死亡された件数は半分以下であった。
話は変わるが、私の祖父は五十七歳という若さで自宅で亡くなった。私がまだ小学校低学年の頃であったと思う。医者は胃潰瘍だとか言っていたが、今から振り返ってみると、きちんと治療すればもう少し長生きできたのではないかと思う。祖父が死んだ時、娘である私の母親等は、相当泣きはらしていた様に記憶している。それから三十五年経って、祖母が亡くなった。場所は郷里の老人専門病院である。祖母は相当の高齢者でもあり、天寿を全うして良かった、との家族の安堵感があった。祖父の時の様に、もう少し長生きして欲しかった、との思いは残らなかった。ただ、その病院には祖母のような高齢者が多く、高齢化だから仕方ないとは言え、死を待っている人があまりにも多く、なんとなくわりきれない気持ちだけが残った。早死にしたが、今から思うと自宅で亡くなった祖父の方が、より人間的な死に方であった様に思う。
高齢者になれば、人は必ず死ぬ。死ぬ時は、大義名分や何か病名が必要であろうが、私の祖母のような高齢となれば、多分に老衰が原因で亡くなるのであろう。何ももっともらしい病名をこじつけて、ことさら治療する必要はないのではないか。誰しも住み慣れた家庭で死を迎えたいと思うのは普通であろう。しかし、今日の社会状況・家庭環境がそうさせない。生きているうちは医者のお世話になりたいが、せめて死ぬ時位は医者のお世話にならずに安らかに死にたいと云うのが、高齢者の本音ではなかろうか。
折りたたむ...老人医療にかかわって約十五年が過ぎようとしています。当初医療保険で一般医療・老人医療に励んでいました。平成四年に老人保健施設を併設し、平成六年介護力強化病棟へ一部転換しました。現在は介護保険発足に伴い一般病棟と介護・医療療養型病棟で診療しております。
当初は老人医療、老人介護をしている医師は、他の医療機関から奇異な目で見られることもありました。デイケアで患者さんを送迎していると「老人医療・介護はまともな医者がすることではないぞ。もっと医者らしいことをしなさい。患者をかき集めるようなあくどいことはしないほうがいいぞ」と忠告されたこともありました。しかし現在では「先生のところは医療も介護も積極的にやっていて患者さんから信頼されるし経営的にも安定して良いですね」と周囲の評価が変わってきました。ありがたいことです。
昨年「老人の専門医療を考える会」に入会させていただき、メンバーの皆様の老人医療と経営にかける意気込みと情熱を肌で感じることができるようになり、自分の進んできた道、進もうとしている道は間違いではないと確信できるようになりました。感謝しております。
さて老人医療・介護をしていて悩まされていることに、介護を要する患者さんの家族構成があります。厚生労働省の指針では老人医療を在宅医療介護にシフトさせたいようですが、介護能力のある家族か身寄りの応援が得られる人であればそれは可能でしょう。しかし、介護力のない人はどうでしょうか。その場合は要介護度の如何に関わらず、現在の区分支給限度基準額で安全に在宅生活をおくるには不安があります。安心して在宅介護を受けるには、自費の部分が増えて施設にいるより随分高くつきます。
患者さんの現在置かれている環境は、個人の責任によるところが多いのですから個人がお金を出すしかないのでしょう。しかし医療・介護の現場ではそうも言っておれず経済的な面から長期入院・入所となっているケースが増えています。
在宅で生活している方の個人負担を軽くする方法はないでしょうか?如何なる介護プランが望ましいのでしょうか?市町村での研修会では「インフォーマルな介護資源のボランティアなどを組み込みなさい」などと無責任な指導をしています。真夜中に親切・確実に介護してくれるボランティアがおられたら是非紹介してほしいものです。
私は現時点では、介護力に乏しい要介護三・四・五の患者さんには、在宅介護に向けての積極的な指導は控えています。その上で診療内容においても経済的にも患者さんとその家族が満足できる療養環境づくり「これぞ老人病棟」を目指しております。
しかし困ったことに、厚生労働省は患者さんの在宅生活での負担を軽く見せる為に、施設入所での費用負担を高くするように画策します。老人は年金があるとか、若い人より貯金が多いとか言って搾り取ろうとしています。今後の医療法・介護保険法の改定が思いやられます。
保険財政が危機的状況にあることはよく分かります。何時も言われることですが効果的な政治改革・行政改革を行い、無駄をなくして豊かな高齢社会を作りたいものです。
折りたたむ...東京出張中に右大腿骨の骨幹部を骨折して約一年が経つ。倒れた瞬間に骨が折れたと分かったが、夜中のことでもあり馴れない東京ということもあって、取り敢えず家内に連絡をし、夜が明けるのを待つことにした。
翌朝、事務局の安芸さんに電話を入れ、手術する病院を探してほしいと頼んだ。三十分もしないうちに、天本先生の紹介で慈恵医大に受け入れて貰えるとの知らせがあった。ほどなく家内と安芸さんがほぼ同時に現場に駆けつけてくれた。やがて救急隊員三人が来てくれ、親切かつ丁寧に患部を固定しながら搬送してくれた。しかし、救急車はサイレンを鳴らして走っている割りには非常に遅く、車が揺れる度に骨折部位の骨がコリコリと音をたて、新たな骨片が出来ているに違いないと思った。
慈恵医大の救急室で担架からベッドに移るときに強烈な痛みを感じ、これから何度か体験するであろう移動時の痛みに対する恐怖感と憂鬱感、そして骨折したとの実感が涌いてきた。
何しろ骨片が五〜六個に分かれた粉砕骨折である。医師によるとこういった折れ方は交通事故以外に考えられないと言う。理由を尋ねられて「転倒しました」と何人かの医師に答えたが、そのうち骨折理由については誰も聞かなくなった。手術は浮腫と炎症が強く、すぐには出来ない。相当量の出血のため貧血もあるので、実際にはしなくて済んだのだが輸血に対する同意のサインもさせられた。
治療に関して私は三つの希望を出した。(1)膝関節を曲がるようにして欲しい、(2)十一月に当会主催の海外研修旅行に行きたい、(3)自分の病院で回復期リハ病棟を始めたので、リハビリはそちらでしたい。担当の教授にはすべての条件にOKをだしていただいた。
八月初旬に手術は予定の時間より長くかかったが無事終了した。手術室で術後のレントゲン写真を見せられて「うまく行きましたよ」との説明を受けた。さらに教授より奈良医大には一週間経てば転院しても良いとの気の早い話も出たが「いくらなんでもそれはないやろ」と思った。
そのうちに、受け入れ先の奈良医大と連絡をとりながら転院の話が進んだようで、搬送手段も色々と考えてくれてパンフレットも用意していただいた。民間の搬送業者がいくつかあり、新幹線の列車に障害者用の個室があることも、そのとき初めて知った。さらに希望すれば医師の方で手配するとも言ってくれたが、お勧めの業者を尋ねて、手配は家内にさせた。結局、術後三週間で奈良医大に無事転院することが出来た。
私の出した希望のうち、旅行の時期までには回復しなかったが二つはかなえられた。
三つの病院を渡り歩き、最後は私の病院で老人と共にリハビリ治療を受け、術後六ヶ月でめでたく社会復帰することができた。車イス、歩行器、松葉杖それに一本杖と各種の用具も体験できた。この五月には捻転防止用の装具をつけてゴルフも出来た。今は感謝感謝の気持ちである。当会の役員の先生、安芸さんはじめ多くの皆さんに大きな迷惑を掛けたことを心からお詫びしたい。そして多くの皆さんの善意に包まれる環境にあったことに私を生んでくれた両親に感謝したいと思う。
私の療養中に、例のアメリカでの同時多発テロが起こった。さまざまなメディアで報道されたときの「もはや、昨日までのアメリカではない」とのことばが私の脳裏から離れない。今回の体験により、いろんな意味で私の人生に断絶が生じたことは事実である。これは「老い」の自覚の最初の一歩かもしれない。
折りたたむ...厚生労働省老健局が進めている介護保険制度の見直し作業が順調なようだ。一○月には、介護サービス量等の最終見込み値を取りまとめ、要介護認定モデル事業も全市町村で開始される。介護報酬についても、介護事業経営実態調査の結果が報告される予定で、その後の審議で報酬改定作業が進められることになっているとのことである。
介護療養型医療施設連絡協議会の木下会長が、介護給付費分科会で、介護職員の三対一の廃止に反対しておられるが、この問題については、先おくりされただけで、結論が出ていない。なぜか、ちぐはぐな議論というか、各組織の代表者が言いたいことを主張し、厚労省側は、「キキオク」という姿勢に終始しているようで、不気味だ。一国の高齢者ケアの将来を実質的に左右する議論としては、あまりにもお手軽なように思う。
それにしても、老健局の進める新型特別養護老人ホームの整備について、病院関係者の一人としては、なんとも理解できない。全室個室・ユニットケアの施設整備は、確かに時代の要請であると思うし、特段反対する根拠もない。当会の会員が、個室化やユニット化に反対するはずもないが、本当のユニットケアの効果とか、個室化の採算性などということについて苦言的に発言することさえゆるされないような世論誘導があるように思う。
なにがなんでも、高齢者ケアの質の向上が必要であり、ユニットと全室個室でなければダメといわれてしまうと、老人保健施設や病院はどうするのかという不安がある。一方では、全室個室やユニットケアには、多額の施設整備費をこのご時世に手厚く補助し、「低所得者に配慮しつつ、ホテルコストの負担を求める」と厚労省はいう。低所得で個室でユニットケアの新型特養に入居できた人々は、それはハッピーであると思う。では、病院や老健施設の利用者の皆様は、どうなるというのであろうか。
なにか、うらやましがっているのではないか、と取られると残念だが、介護保険施設全体の整合性(役人言葉で意味不明の用語だが)とか、被保険者の公正とか、公平とかという議論からしても、改善の余地があると考えてもよさそうである。
第一に、ホテルコストの負担を求めるよりも、特養に対する補助金をこの際、きれいサッパリと廃止したらどうなるのであろうか。ついで、老健施設の僅かばかりの補助金もヤメた方がいい。特養も経営してみればわかることだが、減価償却をキチットすれば、補助金があってもなくても同様の結果で、納税しているのであれば、損も得もないはずである。ただ、補助金では資金調達が楽であるというメリットがある。
第二に、医療法人は、課税、社会福祉法人は免税という考え方について、いってもしようがないことではあるが、介護報酬の設定時に厚労省はもっと勉強すべきではないか。このまま一○年後も免税ということになると、病院の公私問題と同様の構造的問題を引きずることになる。老健施設などは、医療も福祉も、まったく同じことをやっているのに、他の制度では別枠にするというのは、それこそ構造改革に反するだろう。
そして第三だ。全室個室でユニットケアを本気で進めるのであれば、利用者二人に対して職員一人以上が必ず必要である。それ以下では、著しいケアの質の低下が生じることは明らかで、このことは、まともに個室ユニットを実施している特養を調べれば、すぐにわかる。
なぜ、看護六対一、介護三対一で、二対一を実施している療養病床の職員数配置を廃止してしまうのか。新型特養にとっても、大きな不幸になることは、目に見えている。
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