老人医療NEWS第52号 |
子供の頃の「年寄り」の目安は60歳でした。時代をもう少し遡ればもっと若年で「年寄り」だったようです。21世紀に入るや、この栄ある(もちろん、本人は嫌がっていますが)還暦を迎える者の1人として、中途半端ながら「老化体験」を記念に記しておきます。
関西では老化の順を「歯、眼、○○」と言います。最後の○○は、ご想像通りのもので、若干生々しく、ここで書く勇気がありません。
まず、歯について。本数だけは学生時代と同じです。機能的には通常のことはソツなくできるものの、鰈のから揚げの丸齧りや、ビールの栓抜きは、怖くてできなくなりました。歯肉も衰えているとかかりつけの歯科医はいいます。信用していませんが。
歯より顕著なのが眼の衰えです。老眼鏡を買ったのは50になったときです。もともと軽い近眼でしたから、老眼にはならない、なったら逆に視力は回復するだろう、なんて甘いことを考えていました。ところが、なってみたら、インド人もガックリ、遠くも近くも両方とも見えなくなってしまいました。「遠近両用メガネ」で突っ張ってみたこともありますが、いまは悟って、遠くは諦め、本を読むときに老眼鏡をかけることにしています。この境地にたどり着くまでの定石通り、「怒り」、「否定」、「うつ」を体験しました。ただ、願掛けなどの「取引」は、邪魔くさがりのためでしょう、しませんでした。残念ながら、小さな活字はどんなに努力しても読めません。たいていは読むのを諦めますが、仕方なく子供や秘書の支援を仰ぐものもあります。暗いとだめです。高級ホテルの部屋、なんとかして欲しいですね。恥を厭わない高齢者の誰かに一度転んで欲しい。そして、「暗すぎた」と訴えてくれたら…。他人の不幸を願ってはいけないのですが、どこのホテルもあっと言う間に横並びで、ギンギラギンになるでしょう。
足の筋力の衰えで路面の凸凹にはよくヨロケさせられます。リハだとばかり足の指に力をいれて歩いてみると、「なるほど、これが歩行か」と感動するほどの躍動感が味わえます。子供の頃得意だった種々のアクロバットはパフォーマンスだけが健在です。塀の上のような高くて幅の狭いところをぴょんぴょん飛び歩いていたときに比べても少しの変化しかありません。いまは、低くてたっぷり幅のあるところで「あや、およよ」と手でバランスを取ってみせたり、急に立位を取って「とろっ」とよろけてみせたりです。
睡眠が浅くなったのも老化の1つでしょうが、浅いおかげで、たくさんの夢が見られるようになりました。わけても子供の頃の思い出が楽しめた後は寝覚めが爽やかです。
折りたたむ...高齢者のターミナルケア(終末期医療)において、ご本人の意思はどの程度尊重されているのであろうか。多くは認知障害を有する90歳近い方が次第に経口摂取できなくなった時、本人にどの様な治療を希望するか確認し得る事は極めて稀であろう。点滴、IVH、経管栄養などをとても嫌がり、抜去してしまうなどの行為で本人の意思を多少とも推測できる程度である。この様な時は通常、ご家族、特にキーパーソンの方と話し合い、方向性を決めている。これで良いのだろうかという疑問も少なくない。リビングウィル(尊厳死の宣言書)で自己の意思をはっきり表明している場合はわかりやすいが、それにも問題がないわけではない。現在、尊厳死協会に全国で93000人が入会している(平成12年10月29日、北海道新聞朝刊)4年前より約2万人増えているという。しかし、国民全体からみれば0.01パーセント程度である。臓器提供意思表示カードは全国で9パーセント、札幌市で19パーセントの人が所持している(平成12年11月5日、北海道新聞朝刊)。このカードはとてもすっきりしていてわかりやすい。
リビングウィルは前文に続いて次の3項目が記されている。
ところで3の生命維持装置のなかに、水分補給や抹消点滴が含まれるのか、衰弱してく高齢者の最期をいわゆる植物状態という言葉に包含されるのか、また、一度始めた経管栄養やIVHを中断する勇気を多くの医師が持ち合わせているのか、と思う。このリビングウィルは、癌や難病などを対象としてつくられ、高齢者の終末期医療向きには作られていないと思うし、意思表示の形がもう少し簡素化されないかとも思う。私は己の終末期に対し経口摂取できなくなった時、「経管栄養の開始」を希望するか否かを中心に意思表示をしておく終末期医療意思表示カード所持の普及を期待する。それには、
海の舟の上からの魚釣りが、私の趣味である。釣暦は34年にもなってしまった。
東京湾を中心にした子舟による海釣りの歴史は古い。四季おりおりの様々な魚が、具体的には、
春は、キス、めばる、中鯛、そして大鯛。
夏は、いなだ、スズキ、平政。
秋は、カツオ、メジマグロ、カマス、小鯛。
冬には、黒ムツ、あこう、ヒラメ、ほうぼう、等。
水深5メートル位から500メートルを超える深さまで、竿も他の道具立ても全く異なった技法で釣ることができる。それぞれ、独特の楽しみ方があり、舟酔いさえ解決できれば、一年中楽しめる趣味である。
今回は新年号でもあり、真鯛釣りの話をしたい。釣り方は大きく2つあり、1つは昨今、釣り人口が増えた理由の1つである、コマセ釣りである。大人数で鯛の遊泳層の上で、皆で同時にコマセをまき、鯛を浮き上がらせ、同時に食い気をおこさせコマセの中に鉤のついたエサを食わせて釣る方法である。重いおもりが必要で、竿等もごついものとなってしまう。私が昔から続けているもう1つの釣り方は、小舟に少人数で独特な糸巻きとガイドがついている手ばね竿を使い、生きたエビエサに鉤をつけ、軽いおもりを使用して、鯛の目の前で躍らせて食いつかせるという方法である。魚の重さや動きを直接指で感じながら糸をたぐったり、時には出してやったり、魚とのやり取りをする。4キログラムを超える大鯛の時には、竿そのものに尾手糸なるものをつけて、海中になげるというスリリングな楽しみもある。
あたりがあり、合わせをして鯛の硬い口にがっちりと鉤をかけ、糸をたぐりながら、最後に網ですくいあげ、舟の中に入れるまで、長くても10分間位のプロセスを楽しむために、朝早くから1日中海の上で竿をしゃくり続けるという辛抱も要求される。「ボーズ」という1枚も釣れない日もある。昔は真鯛釣りにはしばしばあったが、日本近海で釣れる魚が少なくなっている中で真鯛だけは確実に増えているのである。20年位前より、鯛の稚魚を放流し続けているのである。毎年、神奈川県で100万匹、千葉県で80万匹放流されているという。しかし、1〜2センチメートル位に成長した稚魚をそれぞれの港の養殖網などの中で5〜8p位まで育てる(この間4〜5ヶ月)。これくらい大きくなると簡単に他の魚のエサにならないのである。最近の1年間で500〜600グラムに成長し、1.5キログラムになるのに4年間位かかる。1.5〜3キログラムまでを中鯛と呼び、味も一番よく市場価値も高い。ちなみに築地の市場では明石の鯛が一番高く、時に他の倍近いこともある。真鯛のうろこは年輪と同じように年を刻み、50歳を超えることが知られている。10キログラムを越す鯛がそうである。運がよければ釣ることはできるが、私はまだ9キログラムまでである。
昨年から真鯛の大釣りが続いている。近いうちにぜひ出かけたいと思っている。鯛の一番おいしい時は桜鯛の時と初冬。冬眠体制に入る前にエサを食べ続けている今頃といわれている。
折りたたむ...昨年11月10日、厚生省保険局医療課長通知「保険医療機関等において患者から求めることができる実費について」(保険発第186号)が公表された。内容は、「実費徴収に関する手続きについて」「実費徴収が認められるサービス等」「実費徴収が認めらないサービス等」「その他」から構成されている。
いわゆる保険外負担の徴収については、これまでにも再々通知がなされているが、今回は、中医協の10月27日の総会の席上示された「保険診療において患者に求めることができる費用の整理(案)」を通知化したものである。主眼は、保険外負担に関する医療機関と患者間のトラブルの多発で、特に、差額ベッドが中心となっている。この通知は、明らかに1月から実施の老人医療定率1割負担の導入をにらんだもので、介護保険料の徴収や1割負担が、家計を圧迫することや、年金改革の方向が年金額の減額に向かいつつあることを前提としていることは、確かであろう。また、長引く不況は、勤労世帯の可処分所得を低下させ、その分保険外負担に対して、世間の厳しい目があることも影響しているように思う。
老人病院の保険外負担は、一時期、「お世話料」「施設管理費」等のあいまいな名目での徴収が問題視されたが、外来患者が一般患者より著しく少数であるにもかかわらず、入院患者に対する職員数が多く、十分なケアを実施するには、経営上困難であるという背景が一方にあった。特に大都市の人件費が問題であり、公立病院と同等の給与体系では、ほとんど事業を継続することは無理であった。
その後、老人診療報酬や介護報酬あるいは地域加算などで、かなり改善されたが、それでも基金や連合会からの報酬だけで、大都市部で病院経営を行うことは、難しいという声が強い。おむつ代や病衣貸与、テレビ代やクリーニング等については、実費徴収が認められているが、何が「実費」なのかが問題である。少なくとも多くの病院が、生活保護基準以上の料金を徴収していることは事実であるが、それでは生保の基準が実費なのかどうかは、かなり議論があるところである。
老人保健施設で認められている実費徴収と病院のそれとが、同様であれば問題がないということであろうが、そもそも費用構造に差があり、何らかの補助金がある施設と、全てを自給し、多くの場合、納税をきちっとしている病院とに差があっても、考え方によっては当然といえなくもない。
問題は、保険財源にまったく余裕がなくなり、制度を続けるためには、何らかの患者負担がやむを得ないという理屈と、基準外の負担はまかりならないという指導の間に、明らかに倫理の整合性が乏しいことである。病院が勝手に徴収するのは一切まかりならないが、制度が負担増加するのはかまわないというのであれば、病院経営上の努力は認められないし、サービスの向上は考えないというのと同様であると思うのは、うがった考え方であろうか。
多くの老人専門病院の同志は、この国の経済状況について、患者さんや家族から沢山のことをすでに学んでいる。そして可能であれば一切の保険外負担徴収もやめたいと考えている。もっと正直に言えば、何らかの保険外徴収によって、高齢者ケアの質が確保されている部分がある一方で、何ら質の向上に努力していないのに保険外負担を求めている算術病院もあることが気になるのである。ルールはルールとして、指導には従うが、なんでもかんでも安かろう悪かろうでも先がない。今一度、よく考えてみたい。
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