老人医療NEWS第49号 |
戦後50年間、わが国民は、一貫して豊かな生活を求め、その成果の一つとして、世界一の長寿国にもなった。しかし、その先にあるものと云えば、寝たきりやボケといった他人の助けなくしては、生きられない状態であったり、沢山のチューブにつながれ、延々と生かし続けられる姿に代表して語られることが多い。つまり、自分の人生の終わりの形がなかなか見えにくいがゆえに、不安な部分のみが、増幅されるという構図が出来つつあるといってよい。
しからば、人は、どんな形の最後を望むのであろうか。
年をとっても他人の世話にならず、気ままに暮らし、ある日ポックリが願いであると云っても、現実には、それはほんの少数派にすぎないし、今後も積極的安楽死でも認めない限り、増加するとも思えない。
となれば、もう少し、現実的な最後の形を模索した方がよい。
最近余りきかれなくなったが、わが国には、昔から「大往生」という言葉があり、この中にこそ、現代人の不安を解消する鍵があるように思えてならない。
私なりに解釈すれば、@ある程度長生きし、周囲への責任を果たし終えてること。A周囲に、特に自分の家族や親しい人々に迷惑をかけず、惜しまれながら逝くこと。B最後が穏やかで、見苦しい姿ではないこと。等の条件が挙げられようか。
私達の対象としている要介護者の大部分は、@の長生きはクリアしているものの、Aの条件となるとなかなか難しい。要介護状態が長期化すると、家族による介護の負担感は、する側、受ける側の双方で飛躍的に増す。介護には、かなりの量の専門的な知識と技術、それにしっかりした仕組みが不可欠であり、それにハートが加わって初めて成果があがるのであって、ハートだけの素人芸では不十分であるばかりか、時として余計な苦労、苦痛を招来することにもなる。
従って、Aの条件を解決しようとすれば、基本部分はすぐれたプロの集団に委ね、家族は主に精神的にサポートする。つまり、「介護はプロに、家族は愛を」ということではなかろうか。
Bの穏やかな、見苦しくない最後というのは医療技術の発達、普及と共に、かえって実現が難しくなってきている。人生の最後の部分を切り離して、医療の専門家に委ねるとすれば、最善の努力とは、技術と知識を駆使してのチューブづけにならざるを得ないのである。その人の最晩年を輝かしいものにしようという一連の流れでとらえてこそ、穏やかな、そして余韻のある臨終が迎えられるのである。このように考えてくると、私達のやることははっきり見えてこよう。
折りたたむ...介護保険法が施行されて3ヶ月が過ぎた。早いもので、介護認定審査会では2回目の審査が始まっている。審査会に出ていて思うことは、1回目の審査結果と2回目の審査での結論に整合性を持たせるような力が働くことである。
1回目は暗中模索というか五里霧中の中で、意識したわけではないが、1次判定を押し上げるような力が働いた、と今は思える。理由として、ソフト自体が痴呆を評価していないことに関する不信感や、ADLに偏重された介護度の判定の出方に対して医療側の一人として、どうにも割り切れないものを持っていた。
従い、医師の意見書の中から要介護度を引上げてくれるものはないかと注意深く見る傾向があった。
そのことにより、福祉系の委員と判定委員会で対立することもままあった。福祉系は「一人暮らしで可哀想」だとか「歳だからしょうがない」という発言が多く、科学的な分析ではないと思えたが、結果はその他の分野の委員が間に入る形で決着した。それは、要介護度を押し上げる、つまり蹴り上げ現象と言われるものである。大岡裁きではないが、中間で手を打とうとする意識はどこかで働いていたのだろう。私の場合1症例にかけられる時間が5分前後しかなく、時間をかけて議論することが困難であるという背景もあった。
このような傾向は、審査委員長会議で出た資料と対比して見れば大差ないことが分かった。
つまり、蹴り上げ現象は全国的な傾向であった、ともいえるかと思う。
問題は、今後のことである。
介護保険法は今後も続くから2次判定も継続されて行く。その時、蹴り上げて決まった介護度とどのように整合性を持たせた2次判定を2回目以降の審査会で出せるかが問題だ。
1回目の審査で要介護度がWと判定された人が、2回目では要支援とか介護度Tと出てくる事だってありうる訳で、蹴り上げて、このような状態を作り出していたとすれば問題が起きてくるだろう。それは、介護保険そのものに対する不信感となる。
従い、2回目以降の審査会では出てきた1次判定に科学的な根拠に基づき挑まねばならないものと考える。
要介護Vの人が仮にTになったとしても、それは介護保険法が、その人に上手く機能してADLが改善されたのであり、闇雲に要介護Vに持って行くような事があってはならないと思う。
友人の母親が脳梗塞でつい最近倒れた。素早く対応したので命には影響しなかった。その後の家族の動きに注目していた。病状が落ち着くにつれ嫁は介護保険法の申請をした。
脳外科から退院した次の日に自宅に町から訪問調査員がきた。主治医の意見書も出されて、要介護度はVと判断された。町のケアマネと嫁が協力してケアプランを作る事となった。それから約4日間嫁は奮迅の動きを示した。まず、在宅を決めると、受けるサービスを確かめるために近隣の施設の殆どを見て回り、単価も検討した。細かく10円単位まで。
私はこの経緯を見ていて、「施設は量りに掛けられている。」と思った。諸兄はイカに感ずるか?
折りたたむ...当施設のホールの喫茶コーナーで患者様とご一緒していたときに、大学生の頃、いろいろな方にコーヒーに関する蘿蓄を教えていただいたことを思い出したので書いてみます。
コーヒーの味を決める要素を順に述べると、
また、エスプレッソなどの高温での抽出法ではシルバースキンによる渋みがでやすく、渋皮の処理をいっそう気をつける必要があります。
いろいろ方法はありますが、ネルドリップで5人前後を点てるのが一番簡単にまろやかな味になるようです。
特殊な点て方として水だし法(ダッチコーヒー)があります。点滴式に時間をかけて水をポタポタと注ぎ抽出する方法と、水と豆を混ぜ合わせ数時間置いた後に一気に濾し出す方法があります。熱処理をしていないため豆独特の甘い香りが抽出液に移るため、アイスで飲まれることを勧めます。
学生時代のこだわりを思い出しながら少し書いてみましたが、実は今一番愛飲しているのは自販機の缶コーヒーです。
折りたたむ...4月の診療報酬改定も介護保険制度施行からも4ヶ月を迎え、表面的にはおちつきを取りもどしている。総選挙後の組閣もすんだが、どうもスッキリしない。それは、医療保険制度改革のスケジュールがみえないことが原因である。
負担増は選挙にマイナスということで、与党は医療保険制度改革をあっさり見送ってしまったし、高齢者の介護保険料を6ヶ月間徴収しない方針を示した。これは、政治の世界の話であるが、高齢者医療現場は混乱した。確か、4月1日からは、医療も介護も一割の負担と厚生省は主張してきたし、「医療と介護の整合性に配慮する」という発言もあったように思う。
その結果、病院のことはともかく、訪問看護ステーションでは、変なことになっている。難病などの高齢者が医療保険の場合には、1日250円で、看護婦の交通費も請求できるが、介護保険になると、30分未満でも425円、1時間以上1時間半未満だと、1,198円になる。その他、地域加算、夜間、早朝訪問、24時間対応など、まったく整合性がない。
医療保険と介護保険は、まったく別の制度だとしても、ステーションも利用者も大混乱したことは確かな事実である。政治や行政の世界は、わからないことが多いが、現場の混乱を最小限にするという姿勢は、まったく感じられない。
同じような話だが、昨年来の介護保険制度の混乱は、実はおさまっていないのではないだろうか。たとえば、短期入所の利用に対する厚生省の対応をみるとわかる。短期入所は区分限度支給額内で6ヶ月以内の利用日数の上限があるのみであった。昨年末に、特養関係者から利用日数の拡大が求められると、訪問通所系から振り替えてもよいことになったが、それでも、短期入所の利用者が減少するのではないかといわれていた。実際、4月になってから、短期入所の利用者は、特養で70%、老健施設が40%程度減少した。あわてたのは、施設側だけではなく厚生省も対応せざるをえなくなった。どうなるかはこれからだが、訪問通所系を合わせて、利用者の居宅サービスの利用頻度は、それほど高くなく、何らかの対応をしないと、秋からの介護保険料の本格徴収にも問題をなげかけることになる。
問題は、厚生行政自体が、何か政治的圧力をかけられると右往左往しているように思えてならないことである。我々、医療を提供する側にある者は、制度改革に対応するために時間が必要であり、一度決定したことが、簡単に変更されると、大変困難な状況に陥ってしまうことさえある。
高齢者医療制度では、医療保険に残った療養型病床群等の定額医療のあり方と、定額にならない一般医療における高齢者医療の問題を整理する必要がある。どのような制度改革をするかという以前に、検討課題を示し、利用者や提供者の意見を集約する一層の努力が必要だと思う。なぜならば、選挙後はただちに医療費抑制に向かうというようなことになり、老人専門医療の質の経済的裏付けがあやふやになってしまうことを恐れるからである。
それとともに、高齢者医療制度は、まぎれもなく医療制度の一部である以上、医療全体の21世紀のあり方の中で、慎重に検討されるべきだと思う。少なくとも、薬剤使用方法や検査などには、何らかのガイドラインが必要であるとともに、療養環境にも一定以上の最適基準の設定が必要であろう。昭和50年代後半の医療費抑制策のように「安ければよい」という一方的な抑制ではなく、科学的で合理的な医療費の適正化と質の確保向上という原則を再認識すべきだろう。
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