老人医療NEWS第48号 |
新しい制度が始まるときはもっと自由度が高くて良いと思うのだが、今回ばかりは、規制が強すぎる。それだけ制度の完成度が高いということだろうか。サービスを提供しても面白みがまったく感じられないのである。ただ淡々と業務をこなすのみである。
ケアマネジャーは介護サービスの量を給付限度額内におさめることに精一杯で、従来のサービスを継続して確保することもままならず、利用者とサービス提供者がかわすことばは「お互いに不便になりましたね」である。ケアマネジャーは何よりも事務能力に優れていなければならないし、その下請けをする業務が必要なことも分かった。介護支援専門員の多くは毎日、残業しながら「こんなはずではなかった」と思っているに違いない。
利用者の方も「こんなはずではなかった」と思っている。今まで利用していた通所サービスやショートステイが今までと同じように使えなくなったのである。その理由は、要介護度の問題ではなく、需要が供給量を越えたからである。
市の財政は少ないが、介護サービスの基盤整備量では他の市町村に負けないと思っていた我が地域においてすら、このありさまである。3月から4月にかけて、療養型病床群と老人保健施設の入院、入所者の動きがピタッと止まった。それぞれの責任担当者より何とかしろとの要請が相次いだ。理由を聞けば、特別養護老人ホームでまったく空きが生じないからだという。
そこで特別養護老人ホームにその理由を尋ねれば、従来の3週間のミドルステイが使えなくなったこととショートステイの希望が土日に集中しているからとのこと。さらに「貯金と同じでショートステイの使用限度枠があるので、小出しにしてあとあとに残しておこうと思う人が多い」と付け加えられた。完全な目詰まり状態である。
一方、リハビリの関係でデイケアの方を勧めても経済的な理由でデイサービスを選ぶ人もいる。デイサービス相当と考えられても、空きがないのでデイケアを利用せざるを得ない人もいる。それでも曲りなりにサービスの種類は選択できている。しかし、サービス事業者までは選択できないのが現状である。
時が経てばケアマネジャーの方は、居宅介護サービス計画作成の不便さと給付管理業務の繁雑さに慣れていくであろうが、利用者の方は使い勝手の悪さから、介護施設への入所を選択していくのではないだろうか。医療型と介護保険型の療養型病床群の混乱はこれからである。
折りたたむ...いよいよ介護保険が施行された。新しい、はじめての制度なので、問題点はいくつかあるが、ただの高齢者の方々に精神的にも、金銭的にもできるだけ負担のかからない姿になってもらいたいものだ。また、医療介護サービスを提供する私達にももっと納得のいくものであってほしい。
しかし、この介護保険導入は、私達の医療サービスの質の転換のいいチャンスでもある。
私は昭和35年医師になったその日から、陸の孤島と呼ばれ、医療に乏しい人口8〜9000人の猟師町の地域へとびこんでいった。昼間は大学院で病理学の研究をし、夜間診療から始め、ゆりかごから墓場までの医療、保健、福祉の施設、システムをつくりたいと思い、それから20年間を費やした(病院、保育所、特別養護老人ホームをつくることができた)。昭和40年中頃からは、当時、高血圧、脳卒中が多かったため、保健婦、MSWを採用して、毎日部落単位の健診、健康教育、訪問活動など地域活動をつづけ、一方、すでにこの頃から脳卒中リハビリテーションを始めていた。現在いわれている生活リハの考え方をもって行っていた。一方、人生最後の仕上げのときとしての「死」の看取りも大きな役割であった。
そうした地域の医療福祉の経験をもとに20年余り前から医療と福祉は一体でなければならないと主張してきた。福祉とは「その人の日常生活の中の不自由さを支え、より安楽に幸せに日々過ごしていただくこと」、身体的、経済的、また精神的な悩み、苦しみが少しでも軽くなるようにお手伝いすることだと思っている。現在の柴田病院(昭和55年9月開業)では、福祉の考え方を基礎に、その上で医療を施すことを基本理念としている。
現在、入院患者の平均在院日数をみると、約790日(約2年間)である。このように長期入院の方々にとって病院は治療、訓練の場である以前に、病院はその人にとっては「生活の場」なのだ。そこで生きておられるのだ。時には人生の仕上げの場でもある。病院での日々の生活の中のいろいろな不満、不安、悲しみ、怒り、苦しみ等のマイナスの心理状態は、その方の自然治癒力を明らかに低下させる。感染症にもかかりやすくなり、病の治癒も遅れてくる。人間は「こころ」が「からだ」を支配している。「こころ」の状態が明るく、前向きで笑みをもって日々過ごすなら自然治癒力は高められ、病を(ガンですら)乗り越えることができる。「生きがい療法」を実践し、末期ガンでありながら4807メートルのモンブランの登頂に成功されたガン闘病者の姿から、多くのことを教えられた。魂(こころ)が肉体に想像もつかない大きな力を与えている。
このようなことを実践している中で「ケア(介護)」が看護の原点であり、「ケア」が医療の原点だと考えるようになった。
入院生活の中でマイナスの心理状態になられるのは医療者に問題があることが多い。しっかりした、心豊かなケアができていれば、マイナスの心理状態から解放され、明るい、前向きな、笑みのある、希望のある日々を過ごすことができ、自然治癒力を大きく高めることができるものと信じている。
医者が病を治すのではない。患者、闘病者の方自身の力で病にうちかっていくのだ。医療者はそのお手伝いをするにすぎない。自然治癒力を高めるサービス、環境をつくることが私達の大きな役割として意識しなければならない。
医療の中で看護、介護者の役割は大きなものであり、介護が医療の原点である。
折りたたむ...新幹線で帰る時車窓に流れる茶畑がほのかに淡いやや黄色かかった緑に染まる頃になると、気持ちが浮き浮きしてくる。そろそろ魚釣りの季節が来るからである。昨年も一昨年も1回も釣り糸を垂れることなく過ごした。当院が、介護療養型への転換工事をしていたからである。工事の最中に釣りとは言え殺生な事は慎まねばならないと思い、海を見ながら諦めていた。
しかし今年は増改築の工事の計画もない。だから釣ってやろうと思っている。狙いは私の場合専らマダカである。マダカとは関西系の名前でスズキの小さいものの総称であり、地方によってはフッコウとも言うらしい。私はこのマダカ以外は殆ど手を出さない。一年を通してマダカ一本であり、釣り人としてはやや異質かと思う。
浜名湖は面積73.5平方キロメートルの大きな気水湖で100種類を超える魚が生息している。浜名湖はそんな魚の母親の役割をしていて、雑魚を育み大きくなって外海に出て生きて行けるまで、穏やかな湖内での成長を促している。従い、種類は多いものの大物は望めない。と、釣りの本には書いてある。
事実そのとおりで、湖内ではさして大きいと言われるものは釣れない。大物を狙うには、浜名湖が唯一太平洋と面する所へ行かねばならない。そこそこに育った、カレイ、ヒラメ、エビ、サヨリ等の雑魚が引潮に乗って、千切れた海草等の陰に身を潜め下りてくる。マダカはその時を待っている。その時とは、青葉が目に眩しい今頃なのだ。
マダカ釣りが好きな人が集まる喫茶店が市内にあって、そこでは2〜3月頃より伊勢湾でのセイゴの事が話題となる。セイゴとはマダカよりもっと小さいスズキの子で、その数が多いか少ないかで浜名湖での出口での一年の釣果が決まると言っても過言ではない。お分かりの事と思うが、スズキの多くは日本の沿岸部を回遊していて伊勢湾で生れたスズキの子は北上しながら、河川から流れ来る子魚を捕り大きくなって北上して行く。そんなわけで、浜名湖の出口は彼らにすれば、極上の餌場であるわけだ。釣り人にすれば餌場にたどりつく日を逆算する為に伊勢湾、特に伊良湖岬を出たセイゴの情報が必要になる。
今年はセイゴの育ちもまずまずとのことであり、太平洋には冷水域も無いと言うことだからたくさん釣れそうである。新しい竿も手元にある。後は逆算して想定した日が来るのを待つばかりだ。
釣れる場所は新幹線に乗っている人から見て、太平洋側に大きな浜名大橋がある。この下を浜名湖の今切れ口と呼んでいる。浜名湖が太平洋に大きく口を開けている場所で1498年の地震で陥没して太平洋と繋がった所と言われている。
大体この辺りの所を潮の流れに乗りながら小船で漂うようにして釣る。船頭と二人してひたすら糸を垂れるが、呼吸が合わないと上手く行かない。餌の付け方、重りの重さ、道糸の長さやポイントの選び方等どれ1つタイミングがずれても魚は釣れない。従い船頭と肌が合うかどうか?までの問題となってくる。
幸い私は船頭に恵まれている。十数年のつき合いになるが、無口な人で釣っている間は一言も交わさないこともある。釣りには静寂が必要なのだろう。
介護療養型へとこの2年走りに走ってきた。だから今年は静寂の中で過ごす時を持ちたいと思っている。
折りたたむ...ゴールデン・ウィーク前後に介護保険に関する新聞報道が多数あった。施行1ヶ月ということで、いろいろなことが書かれていたが、いずれもデータ不足で、そうかな、という感じであった。
新聞各紙をならべて読むと、各社ともニュアンスに差がある。さすがに「介護保険悪玉」報道は少なくなったが、厚生省を悪者扱いした方が良いと考えている新聞は少なくない。しかし、読者の目にも、攻めあぐねているなあという印象が強い。特に、介護療養型医療施設の記事はまったくなく、病院がどう変化していくのかについて、秒進分歩の状況は理解しにくいのであろう。
当会員施設の介護保険制度への対応は、まちまちである。まったく介護保険の適用を受けないもの、半分は介護保険にしたもの、そして、ほとんど介護保険にしたもの、などに大別できる。
そのそれぞれが、何が問題であるかについて、十分分析が済んでおらず、当面は様子見の状態にあるといってもよい。考えてみるまでもなく、受け取る報酬に差が生じたとしても、行っている老人専門医療の内容を大幅に変更した病院は皆無である。病院にとってみれば、入院費用の請求方法と請求先が変わっただけである。
ただし、回復期リハビリテーション病棟への転換を意図している病院では、大きな変化がある。人員や構造基準への対応のみならず、患者層にも変化があるからにほかならないが、定額病棟から療養型、そして回復期という三段跳びは、そう簡単ではない。
今のところ表面的には大きな変化がない病院でも、いくつかの動きがある。第一は、通所リハビリテーションの需要が、かなりあるということである。厚生省は、訪問介護を中心としたサービスを中心に考えていたフシがあるが、利用者やその家族はデイケアに関心があるようで、どこの病院でも新規利用者の受け付けをしている。また、6時間以上のデイケアよりも4時間以上6時間の方が人気がある。
このことは、利用者の多くがサイフと要介護者の生活リズムを考えた結果であると思う。限られた支給限度額の中で、通所リハビリは割安のサービスである。入浴や食事に簡単なリハビリテーションを行っても1万円以下であり、利用者負担も1000円以下である。入浴介護と訪問看護を同日に受けることを考えれば、通所リハビリが有利である。また、朝から夕方までのサービスであり、その間家族は自由であることも人気のヒミツであろう。
第二に、僅かであるが、要介護度が高い新規利用者が増加しているようである。要介護度が低ければ、老健施設や特養という選択がまずなされる。療養型の一部負担が若干高いこともあって、病院でなければならない利用者が増加するのは、当然といえば当然である。
第三に、確実にリハビリテーションを希望する利用者が増加している。特養や老健施設と比較しても、病院のリハビリの方が濃度がある。ただし、リハビリテーションのスタッフや施設がない病院は、この限りではなく、いずれ競争に負けてしまうのかもしれない。
この3点から考えてみると、介護保険制度によって、老人専門病院や老人を専門とする診療所に対するニーズが顕在化しつつあるように思うのである。特養や老健施設の建設ラッシュ中で、選ばれる老人専門病院の条件が、明確になりつつあるとも考えられる。
介護サービスの供給量が増加すればするほど、顧客である利用者の選択肢が増えることになり、冷静に消費選択が進む。選ばれる老人専門病院であることが求められている。
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