老人医療NEWS第121号 |
社会保障・税の一体改革の議論が大詰めを迎えている。本稿を執筆している現在(平成24年7月1日)、法案は衆議院を通過し、参議院での審議に回った。
私が懸念するのは、社会保障と税という国民の生活を大きく左右する議論に、国民の視点が欠けているのではないかという点である。これには、政治が政局に偏りすぎていることもあるが、一方で国民の側にも議論に参加するだけの素地が整っていないことがある。社会保障先進国のヨーロッパでは、子供の頃から税や社会保障に関する議論を含めて充分な教育がなされており、自分が支払う税に対しては厳しく追求していく目が育つ。私はかねてより教育の重要性を痛感しており、医療界の若手経営者が集まる、私が前代表をしていた東京青年医会の主催で、小中学生を対象とした社会保障と税の勉強会を行うことにした。その模様は何らかの形で公表したい。
さて、国会の議論に戻ると、消費税ばかり先行し、肝心の社会保障の中身が見えてこないが、医療介護に関する私見をいくつか述べさせていただきたい。
私が医療介護の現場に入って二十余年、年々思いを強くするのは、地域毎に医療介護を取り巻く環境が違うということ。たとえば、地方では医師、看護師等の人手不足が問題なのに対し、都市部では地価の高さや土地不足に悩まされている。私は、全国一律の人員配置や病床面積で縛るのではなく、質の確保はもちろん前提であるが、地方はソフト面の人員基準、都市部はハード面の面積基準を緩和すべきだと考えている。また、これから超高齢社会に突入するに当たって、自らの命を自分で決めることのできる制度を導入していく必要もあろう。二十歳になったら誰もが社会保障カードを持ち、臓器提供の意思と、老人の専門医療を考える会でも取り組んでいるリビングウィルについて記載しておくという方法はいかがだろうか。
日本の医療介護に今求められているのは、将来のビジョンやグランドデザインを確立することである。充分な医療介護サービスの提供にどの程度のコストを要するのか、その財源はサービスの削減によるのか、それとも国民の負担増によるのか、国民が選択できるように具体的な数種類のパターンを作る必要がある。そうした過程を通して作成されたマニュフェストについては、オランダ等で行われているように、財源的に担保されているか第三者によって評価し、結果を開示すべきである。
選挙とは無縁の世界で、政策作りに没頭できる議員像を考えてみた。厳しい推薦の条件をクリアすれば誰でもなれるが、バッチは付けず、叙勲の対象にもならず、会合での挨拶もできず、宴会への参加も禁止、市民講座年間104回以上出演とタウンミーティング年間156回以上出演は義務で、給与も国民平均給与額でひたすら議員立法を作る「ボランティア議員」、こんな理想的な議員ができないだろうか。
折りたたむ...地域包括支援センターから突然の相談があった。
高齢者世帯で認知症の夫の介護をしていた妻が脳梗塞で倒れた。隣人からの通報で救急車が到着、夫をひとり残して妻は入院した。子供は別居しているが、事情があって引き取れないらしい。残された夫は一人暮らしができないため、当座の受け皿を探したが、当院は満床、特養は待機者が一杯、老人保健施設も一杯、ショートステイもグループホームも受け入れてもらえず、なんとかならないかという。
医療機関への通院歴はなく、介護サービスも受けていなかったことから、介護保険を申請するために外来受診してもらい、一通りの診察と検査をして、アルツハイマー認知症の他に高血圧と糖尿病があることが分かった。あちこち探した結果、かなり遠くではあったが精神科病院に入院することができた。
さて、脳梗塞の妻は二週間の救急病院での治療を終え、回復期リハ病院に転院した。しかし、後遺障害は重度であり、いずれ退院しても自宅での生活、一人暮らし、まして夫の介護などは不可能と予想された。家族は両親ともの介護が必要になったことに狼狽し、長期の入院あるいは施設入所を希望したが、医療療養病床は夫婦どちらも医療区分一のため断られ、介護療養病床は夫が要介護二、妻は要介護三で断られ、特養も待機者リストに入れてもらえただけであった。したがって、近い将来の入院・入所の可能性はきわめて低くなった。
結局、老人保健施設に頼む道しかないため、半年ごとにほとんど変わらない入所用診断書を提出しながら、安心して永住できるところが空くのを今か今かと待っているのである。思い起こせば平成4年、慢性疾患や高齢弱者の長期入院のための療養型病床群ができ平成12年に介護保険制度が整備されたとき、もうこれでたらい回しされる老人はいなくなり、終生介護が必要な人は特養へ、在宅復帰が見込める人は老健へ、慢性疾患で長期にわたる医療処置が必要な人は介護療養型医療施設という住み分けが完成したと喜んだ。そして、それぞれの施設で働くスタッフは大いなる誇りをもって、医療あるいは介護サービスの提供に意気が上がった。
あれから12年、老人のたらい回しはなくなったのであろうか。よりよい老人医療・ケアが行われているのだろうか。働く人たちのやりがいは増したであろうか。介護に夢を抱く若者は増えたであろうか。否。急性期病院と慢性期病院、病院と老健や特養、回復期リハ病棟、緩和ケア病棟、在宅療養支援診療所などの現場では、医療連携、介護連携、医療・介護連携、そして地域連携など、耳触たりの良い連携という名の老人のたらいまわしが存在している現状がある。そして、これらの連携をするためのやりがいの薄い、しかも多大な労力が、各現場のスタッフの疲弊にもつながっているのである。
かつて、老人病院が老人を食いものにしているという批判を反省することから、当会は良い老人医療・ケアを目指していたはずである。しかし、時が経つにつれていつの間にか老人の想いとは別に国の制度、なかでも診療報酬や介護報酬に振り回されて、本分が置き去りにされつつあるのではないだろうか。
いま一度、老人の専門医療について、原点に立ち返って考えてみよう。
折りたたむ...日本は低負担・高給付という経済学的に説明できない、不可思議な国であると私は常々思っている。また、医療・介護においては、多くのマンパワーが必要な事は明白ではあるが、施設基準という名の下に、頭数をそろえるといった事に力点がおかれ、配置されるスタッフの資質に関しては、後回しになっている。それ故、それぞれの病院、施設はマンパワーの確保に躍起になり、都市部、地方に関係なく、慢性的な人材不足に陥っている。そして、これらの病院、施設は増やしたマンパワーに診療報酬、介護報酬を増やせと声を上げる。次には、医療・福祉のサービスの質を向上させるために、加算をつけてさらにマンパワーの増強を訴える。すなわち、我が国の医療・福祉サービス提供側は、高給付を望んでいるが、先にも述べたとおり、低負担である。租税負担もそうであるが、提供を受ける側、すなわち患者、利用者も直接受けるサービスについての自己負担割合も低い。
しかし、低いといえども、サービス本体の単価が上がれば、自己負担も上がる。それ故、加算を多く算定している病院・施設を避ける。「ただ、預かってくれればいいんです。お金がかかるのであれば余計なことはしないで下さい。」と。病院、施設側からすると、一定水準以上の質を担保しているので、加算を算定している。それが消費者に受け入れられない。そんなミスマッチが起こっているのに、我が国の社会保障制度は、ますます高給付の度合いを増してゆく。
地域包括ケアシステム構想の柱として、「自助・互助・共助・公助」が強く主張されている。何事も、できる限り自分自身で問題解決する「自助」が基本である。しかし、自分一人だけでどうにかするということは、なかなか難しい。身近な人間関係の中で自発的に助け合うといった「互助」がある。しかし、互助にも限界はあるので、コミュニティー、地域の中での助け合いを組織化しようという考え方が出てくる。これが「共助」である。そして最後に、政府が主体となって最低限の支援を行う「公助」がある。「公助」はあくまでも補完的なものである。助け合いの精神というのが、「互助」となるが、昨今は、このつながりがとても希薄化しているように感じる。「互助」が希薄化しているがために、なにか問題がおきると一人だけで解決せざるをえない、またはできない。「互助」「共助」を飛ばして、補完的な「公助」に依存するというスタイルが定着しつつあるように思う。つまり、高給付を求めるが、負担はしないという矛盾が、社会保障への依存を助長し、医療・介護の現場、患者、利用者が疲弊している一因であるように思えてならない。
しかし、世相という我々を取り巻く環境を憂いていても、何も変わらない。医療・福祉サービス提供者として、限られた資源(マンパワー、財源)の中で、いかに最善を尽くし、地域、町の人々に必要とされ、存在価値を維持するのか。診療報酬が高度成長に裏付けられて右肩上がりが常であった、かつての頃のように、報酬改定に依存し、一喜一憂し、ただ漫然と経費削減にいそしむのではなく、独自に必要なサービスを社会保障制度を補完する形で創造していくということが必要である。
そのためには、サービス提供者が、「ただ、預かってくれればいいんです。お金がかかるのであれば余計なことはしないで下さい。」という患者、利用者、家族に、制度は最低限のものであり、それ以上を望むのであれば、お金がかかるということを理解していただけるような「付加価値」の創造を求め続けること、さらにはサービス提供者、消費者双方が「自助」に基づき、制度依存からの脱却を強く意識するという姿勢こそが、今求められていることではないだろうか。
折りたたむ...平成24年度の診療・介護報酬同時改定の結果は、急性期の大病院以外の病院や介護保険施設で減益傾向が顕著だ。大学病院や500床以上の急性期病院が、増収増益傾向であるのは、地域医療の崩壊の防止という掛け声で、救急・産婦人科・小児科への重点配分と、外科手術料の大幅な見直しによるものである。
ただし、これらの病院の傾向として、病床利用率の低下傾向が読み取れる。平均在院日数短縮化策は、DPC病院でも、それ以外の急性期病院に対しても、カウンターブローのようだ。何しろDPCで機能を高くしたいのであれば、地域医療支援病院、救命救急、医療従事者の負担軽減策としての、各種チーム加算や看護補助や事務補助者の増員が求められる。在院日数を短縮化すれば、病床利用率は低下する。各種加算を算定するためには新規に職員を採用しなければならない。それゆえ、増収減益という事が起こっているらしい。
全国に1000病院弱の自治体病院があるが、平均病床利用率は80%台で、80%以下の病院すらある。考えるまでなく、どのような病院であっても、稼働病床の80%以下では、経営が成り立たない。逆に、90%以上の急性期自治体病院は、かなり良い成績を示している。つまり、平均在院日数を短縮しても、病床利用率が低下しないマグネット・ホスピタルがある一方で、新規入院患者を増加できないのに、在院日数を短縮化すれば病床利用率の低下にはどめがかからない敗け組病院に二極化傾向があるということだ。
このことは、自治体病院に限らない。あまり知られていないようだが、国立病院機構は全体で5.2%の経営利益を上げており、公的病院でも各グループごとにみれば、23年度は黒字決算であった。その上で、今回の改定は、どう考えても、国公立公的病院に有利である。
いってもしょうがないことだが、この国の医療は、公主私補的な色彩が強い、民間病院が同じことをしても、各種補助金と無税効果がえられないので、完全な競争にはならない。
回復期リハビリテーション病棟では、新しい入院料Tへの取得競争が激化しているが、病床利用率が低下しなければ、増収は明らかである。ただし、結局的には、増収減益という傾向だ。療養病床は、僅かであるが減収減益で、介護保険施設も同様である。老健施設は、在宅復帰率を30%以上にすれば増収になるが、利用率の低下を招き、増収減益という施設も少なくない。
このようにみてみると、大病院の急性期以外の病院では、確実に増益する病院がないばかりか、どんなに努力して、新しい加算等を取れば取るほど減益するということになる。実にうまくできているというか、知恵があるというのかはわからないが、報酬改定はおそろしい。
在院日数や期間を短縮化し、チーム医療を強化した上で、在宅医療や在宅ケアへ資源を集中するという考え方は、よくわかるとしても、人を増員しない限り増収は望めず、患者や利用者を新規にえられなければ、減益し、いずれは減収するという経済システムは、マネジメント上の問題を多数発生させている。
介護保険制度創設から12年目を迎え、人口は減少し、高齢者は増加するが、平均在院日数減少のスピードが速いため、結果的に、その他病床と区分された一般病床が、今、急性期病床と亜急性期病床に区分されつつある。マネジメントの要点は、病床利用率の維持・向上にある。
療養病床でも、老健施設でも、利用率が90%以下では、経営は成り立たないのである。それゆえ、減益に対応する方法は、今はこれしかない。でも、それだけでいいはずはないので、次の一手を深慮したい。
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