老人医療NEWS第119号 |
世界に冠たる長寿国、日本ではこの世に生を享けた人の80%が80才を過ぎてから死を迎えている。そして、ほとんどの高齢者は医師の関与のもとで人生の最後の時期を過ごしている。
先般、この道40年という葬儀社の人から衝撃的な話をきいた。「最近は引き取りにいった高齢者のご遺体の様子が昔とはずいぶん違う。皮膚が黒ずんでいたり、水ぶくれしている例が明らかに増えている。あわせて、安置している寝具がビッショリ濡れている例も少なくない。まるで溺死体のような印象すらある。それも病院に限らずいろいろな高齢者施設であったり、時には自宅で亡くなられた人の場合もある」というものである。そこに共通しているのは、入院のみならず、往診や訪問診療等により医師がしっかり関わったことが見てとれる場合が多いらしい。
この話はどう受け止めたらいいのであろうか。私達は高齢者医療を通じて、他人の人生の最後に深く関ってきた。しかし主な関心はその人をいかに元気にするかとか、いかに長生きさせるかにあり、どんな形で旅立っていただくかは二の次であったように思う。ましてや亡くなったあとの姿などにはほとんど関心がなかったといってよい。伝統的な医学教育の価値観からすれば、死を少しでも先送りにするために全力を尽くすことが善とされてきた。そしてそれを受ける形で医療の専門職は可能性が少しでもあれば現代医療の粋を駆使して治療に努めてきた。その結果が前述の死後の姿であるとしたらどうであろう。
もう少し謙虚に世間の声に耳を傾けてみるとよい。ある調査によれば何と大半の人は病院だけでは死にたくないと思っているという。その理由として、本人も周囲もそれなりに長生きしたと思っているのに、入院したが最後、たくさん管をつけられた惨めな姿になり、たっぷり水分、栄養分を注入され苦しい、つらい時を過ごした挙句に旅立つことになることを見聞きしているからだという。それが家族の選択とか希望である等言い繕ってみてもしょせんは相手は人生の最後の部分については素人であり、結果に対して世の中の人は快く思っていないことは確かである。人によって表現の違いはあろうが最後は自然の流れのなかで穏やかに、そしてできることならきれいに旅立ちたいというのが本音であろう。
事は簡単である。難しい理屈はいらない。自分だったらどんな形で医療に関わってもらい、どんな形で人生の最後を迎えたいか。人生こそは終り良ければすべて良しの世界、そして最大の不幸はかつてイギリスの老年科医が語ってくれた言葉「人には死よりももっとつらいことがある。それは自分の能力を越えて生かし続けられることだ」に尽きるように思う。建前と本音を使い分けることなく、すべて我が事としてとらえ、素直に実践に移すことこそ私達の使命ではないだろうか。
折りたたむ...いただいたお題がそうなっているので、遠慮なく書いてみたい。この文章を読まれる方は、私の肩書きは一切失念してお読みいただきたい。
人は、生まれたとき、私への愛で頭の中が一杯である。しかし、それだけでは、いろいろと不都合が起きる。そこで、不快なことを上手く避けながら、快いことを求めて成長していく。この成長過程で、本人、または社会に歪みがあると、人間社会の一員としては不適格な人となってしまう。そうならなかった人は「人格者」か「平凡な人」として一生を送ることになる。適格・不適格は、人生における最重要な問題ではなく、自分の人生が幸せかどうかが重要なことになる。幸か不幸かの決定的瞬間はターミナルに訪れる。仏教では、その後、閻魔様が裁いてくださることになっている。
以上は、人格形成を含めた人間の成長を概観したものだが、我々の意識に余り上がってこない重要なことがある。それは、日欧の理念の差である。いま、さかんに欧米の真似をして、医療をはじめ、いろんな制度改革が行われているが、欧米の理念に基礎をおいているものが多く、これが制度施行に支障をきたしている。
日本では、個は「目立たないようにすること」と教えられる。親の言うことをよく聞き、他人にやさしく、規律を乱さない子が「優等生」とされてきた。事実、日本社会では、このような子が大人になったら、上手く社会適応してくれる。しかし、このような子は、いま、さかんに望まれているイノベーションとは縁遠い。イノベーションは、問題を起こして目立ち、親や他人の意に反して自己主張して、既存の規律を破る子が起こす。
日本社会は逼塞感が覆っていて、イノベーションが希求されているが、子供時代の育てられ方からすると、望むのが無理だと思われる。具体的には、官僚の「減点主義」が好例だ。
欧米では、自分の主張をしっかりと述べて、他人と意見をかわすことによって、「個」としての成長が重要視される。イノベーションにとっては「自己責任」で律されるので、都合のよい社会環境となっている。両者の差は定着していて、簡単に変革することは難しい。だから「○○抜本改革」などというものは、日本では実現しづらいのである。いま、「社会保障・税の一体改革」が取り上げられているが、「マイナンバー制度」ひとつとっても、実現に多くのバリアが考えられる。
さらに、日本の風土として、関東圏と関西圏の違いも重要である。関西にはやしきたかじんの「そこまで言って委員会」という番組があり、従前のタブーを恐れず、社会問題に切り込んでいる。使っている風土は「ボケとツッコミ」であり、「建前社会」の関東圏とは、相容れない。前記逼塞感は、関東圏の風土に由来していると、関西人である私は考えている。タブーを恐れる関東圏では、どうしても及び腰で事に当たるので、言いたいことを言えず、言われたら反論できない。韓国では、このような風土を「ちぢみ思考の日本人」と呼んでいる。この指摘は正しい。
表現が必ずしもぴったりではないが、「パンドラの箱」を開けねばならない今日、関東圏の「事なかれ主義」、「問題の先送り」にピリオドを打たねばならない、と筆者は考えている。なにせ、少子高齢社会の解決策は、タブーなどを無視した具体策でなければならない。
折りたたむ...日本は先進国で最も速く高齢化が進んでいる。私が住む静岡県浜松市でも急速に高齢化が進んでおり、65歳以上の人口は17.5万人と多く、高齢化率は21.9%(2010年度調査) と報告された。これは10年前と比較し、約6%も増えた計算で、2020年には28%まで上昇すると推測される。一方、要支援・要介護者も急増しており、浜松市の要支援・要介護者は2.7万人で毎年約1000人ずつ増加している。単純に計算すると、65歳以上の15%が介護サービスを受けている計算だ。もちろん、国民医療費も年々増加しており、厚生労働省は2025年には国民医療費が約50兆円になると推計している。
このような超高齢社会のなか、私は介護療養病床である湖東病院で毎日多くの高齢者の診療にあたっている。湖東病院は、その名の通り浜名湖の東に位置し、今まで31年間浜松市ほぼ全域の高齢者医療を担ってきた。入院患者の多くは、脳血管障害を有し、要介護度が高く、寝たきり・全介助状態の患者である。最近の問題は、他施設同様に経腸栄養、胃瘻造設されている患者が多いことだ。当院でみると、胃瘻患者は、この10年で約4倍に増えた。このところ胃瘻への風当たりが強いため、胃瘻造設理由を調べてみた。すると、導入時は経口摂取と経腸栄養を併用していた患者、経鼻胃管を挿入されて当院へ転院、自己抜去が非常に多く、再挿入も極めて困難(患者の苦痛が強く、抵抗も強かった)であったため止む無く胃瘻造設したという患者が多く、安易に造設された患者は少ない印象だった。しかし、過去には特に理由もなく、流れ作業的に胃瘻造設された患者も残念ながらみられた。
私は、充分な検討もなされず、延命のため胃瘻造設されることには絶対的に反対だ。しかし、一部の政治家、マスコミみたいに胃瘻を敵視している訳ではないし、胃瘻すべてに反対している訳でもない。臨床の現場に従事している人なら、理解できると思うが、もしかしたら、胃瘻はCureになっているかもしれない。しかし、残念ながら多くの胃瘻は、延命感が拭いきれず、現在は大胃瘻時代になっている。胃瘻の継続中止は、最も難しい方法だと思う。もし、法的に胃瘻(経腸栄養) の途中中止が可能になったら、どんな胃瘻患者に対し、どこまで中止するのだろうか。全くやめてしまうのか、さ湯だけ投与するのか、それとも、点滴に置換してしまうのか。そもそも、順調に胃瘻から栄養摂取できている患者から、中止してしまっていいのか。つまりは餓死させるのと同様だと思うが、法律以前に倫理的にどうなのだろうか。
ご存じの通りフランスでは、法律整備が進んでおり、胃瘻も途中でやめることが出来る。もちろん、医師、コメディカル、Key Person(and/or 患者自身)を含めたカンファレンスで決定しなければならない。昨年、フランスの病院を視察した時に、胃瘻の中止についてフランス人医師に質問してみた。その医師は、胃瘻を中止した経験があるそうで、「患者が次第にやせ細って、衰弱していくのが大変つらかった」と言っていた。さらに、患者家族から「見てられないから、安楽死させてくれ」と言われたそうだ。
高齢者医療の最終目標は「安らかな死」を迎えさせてあげることだと信じている。胃瘻は、患者の苦痛を軽減させてくれるかもしれないが、「安らかな死」を迎えさせてくれるのだろうか。経済的な面が、胃瘻造設・継続の大きな問題になっているのではないか。現在、高齢者医療は、積極的医療から尊厳のある医療(介護)への転換期である。我々のような施設が在宅・地域と積極的に連携し、ハブ機関になることで、尊厳のある医療や介護、さらには「安らかな死」を提供していけるように努力していく必要がある。
折りたたむ...平成24年度の診療報酬・介護報酬同時改定の内容が公表された。マイナス改定ではないものの賃金や物価の下落を勘案して慢性期医療や介護保険施設等の施設系報酬は実質的に引き下げられた一方で、在宅医療や地域包括ケア関連の在宅系は引き上げられた。改定の大方針は、施設から在宅へという流れを創ることにあるとみるべきだ。
在宅医療や24時間定期巡回・随時対応サービスは、少しでも施設利用期間を減少させ、病院以外でも高齢者のターミナル・ケアを普及しようという強い政策的意図を明確に示したものであろうが、報酬改定が行われたからといって、ただちに在宅への流れが加速するという単純なものではない。超高齢者の死亡場所が病院に集中していることは事実であり、今後とも高齢者の死亡実人数が増加し続ければ、その8割程度を病院で対応することがやがて困難になりそうである。
施設から在宅へ、より正確には病院以外でも死が迎えられる環境を政策的に整備しようという大方針は理解することができるが、その整備には時間がかかるし、サービス提供者側よりも地域住民の理解と協力が必要になる。ことは、国民の死生観・人生観や家族観・宗教観に関わる大問題であり、教育や文化にも影響を与えることになりかねない。
家で生まれ家で逝くのが当たり前であった時代があった。60年前には、家での死が8割、医療機関での死は2割以下であったが、それが完全に逆転し、今では病院死が8割になった。病院は科学的な治療を提供する場所であるが、高齢者の看取りの場としても機能していることは、率直に認めるべきであろう。その上で、ターミナル・ケアの在り方を真剣に議論する必要がある。
人の命は地球より重いなどとは言わないが、命を救うことは医療の目的になってきた。結核が蔓延し、有効な薬剤治療が確立していなかった時代、医療は命を救うと同時に、不治の病の人々に寄り添い、癒し、可能な限りの援助をしてきた。いつの間にか、病気は治るのが当たり前であるかのような錯覚が生まれたが、諸行無常の世界は死が避けられない。
診療・介護報酬同時改定は、在宅医療や地域包括ケア関連を高く評価したが、この方針は6年後の同時改定でも、さらに12年後も堅持されるのであろう。この意味では、三段跳びのステップが行われたのである。多くの人々は、すでに病院で息を引き取るのが当たり前だと考えているようである。それを在宅死の方向に導くのは、多くの努力が必要であろうが、現状のように最期は縁もゆかりもない救急病院に搬送され最期を迎えるという状態は改善されるべきであろう。
病院を急性期・維持期・生活期に区分し、在宅医療を充実させることは、すでに大きな流れであろう。しかし、このような考え方を画餅にしないためには、救命救急医療の整備ではなく、在宅ケアの充実とともに良質の慢性期医療の確立が必要である。少なくとも回復の見込みがないターミナル状態の超高齢患者に救命救急医療を提供することが、医療の使命ではないと思うのである。
このように考えると、在宅医療や地域包括ケアシステムを構築していく過程で、解決しなければならない課題は、結果としてわが国の医療・介護をどのように構築するのかという根幹の問題にたどり着く。
認知症やターミナルの問題は、リハビリテーションや医学的治療の双璧をなすものであるように、病院や施設と同様に在宅や地域も重要なのであるから、高齢者医療の実践家であれば、地域包括ケアシステムの構築に最大限努力することが、次の6年間のわれわれの課題でもあることを、再認識することが大切だ。
折りたたむ...![]() |
×閉じる | ![]() |