老人医療NEWS第118号 |
私たちの会は発足29年目を迎えました。会の名称の通り「老人の専門医療を考える」ことが私たちの使命です。介護力強化型病院(療養病床)、老人保健施設、老人デイ・ケアなどのサービス誕生に携わり、老人病院機能評価やケアプラン、高齢者の栄養改善、ターミナルケア、リハビリテーション等、多くの課題に実践を通して取り組んできました。どの取り組みも決してスムーズに進んできたわけではありませんでしたが、どんなときも現場を忘れず正面からチャレンジしてきた結果、道が開けたと確信しています。この姿勢はこれからも変わることなく守っていきたいと思います。
当会では改めて人生最期の時期へのアプローチを重要なテーマとして掲げ、当会らしい「まとめ」の作業に入っています。昨年末に開催されたワークショップでは、本人・家族をチームの一員として位置づけること、そして「リビングウィル」をしっかり求めることなどが合意されました。今後は、形ばかりのマニュアルを作成するのではなく、より実践的な「売り物」が生みだされることを期待していただきたいと思います。もちろん医師の役割を明確化することも忘れてはいません。
会長という立場で取り組んでいきたいと思っていることは「認知症ケアの専門的な実践」です。介護保険制度が導入されて10年経過しましたが、認知症に対する早い(軽度)時期からのアプローチ、言い換えれば医師の仕事を鑑別診断や薬物療法と決めつけるのではなく、「専門的なケアチーム」の一員として、的確なアドバイスができ、最期まで寄り添える存在になることを目指すべきだと思っています。また、同じ認知症と言っても疾病によって症状は違うわけですから、自ずとケア(対応)も変わってきます。しかし実際の現場を振り返ってみると、そのアプローチは画一的に行われているのが現状です。ケアプランにより均質なケアを提供することは重要ですが、十分に掘り下げていないパターン化したプランのように感じているのは私だけでしょうか。これからの地域包括ケア体制の構築においても「認知症への専門的なアプローチ」は重要課題です。海外先進事例を参考にしながらも、馴染みやすい環境の中で、できる限りフラストレーションがたまらない工夫(気遣い)、携わる人たちへの配慮(心配り)など日本の文化や価値観を十分意識した「すべての人の心地良さを追求したケア」を確立していくべきではないかと思っています。
私たちの使命・存在意義は老人医療に携わる専門家集団として社会にどれだけ貢献できるかだろうと思っています。その中で震災や原発事故後の復興に向けた支援も忘れてはならない取り組みです。当会の会員は様々な立場で支援活動を継続されていますが、当会としての活動はこれからです。直接支援ばかりでなく、実践的で具体的な施策やアイデアを提案し続けていくこと、現場に身を置きながらあるべき姿を提言することなど、これからも前進あるのみです。
折りたたむ...在宅入院システムといいますと、なんだろうなと思われる方がほとんどだと思います。一部の研究者が数年前より取り上げている「在宅入院制度」という視点から日本の在宅医療を見てみますと、とてもすっきりとしたシステムが浮かび上がりました。そこから、「在宅入院システム」という名前がつけられました。
では、どういうシステムか、と申しますと、老人の専門医療を考える会が、30年前より「あるべき老人医療の在り方」を求め、研究を重ねてきたソフトの集積がこのシステムの中心です。一言で申し上げますと、在宅医療における多職種によるチームアプローチです。
現在の在宅医療制度は、これはこれで少しずつ洗練されてきた感があります。しかし、老人病院、定額制の導入、中間施設、老健、療養型病床群、回復期リハ病棟、認知症専門施設など、高齢者ケアに必発する様々な問題に正面から取り組んでこられた先生方には、物足りなさと同時に、在宅医療は安心して患者さんを任せられるのか?といった不安感が常に付きまとうのではないでしょうか。
私たちが高齢者ケアに挑戦し始めた当初は、老人病院に定額制が導入される前でした。そのころ日本一の老人病院を作りたいね、というのが仲間たちとの夢でした。それから少したったころに、老人の専門医療を考える会に入会させていただいたと思います。そのころ、とても驚いたのは、会の先生方の老人医療の質の高さでした。それぞれの先生が様々な思いを持ち、質の高い老人医療を目指していたからです。
その中でも、齊藤正身先生の持論である多職種によるチームアプローチは、目からうろこでした。
在宅医療を始めてからも、いつかは齊藤先生の持論である、多職種によるチームアプローチを中心にしたシステムが、在宅医療でもできたらいいなとずっと思っていましたが、このたび武久洋三先生(日慢協会長)のご尽力で、在宅入院システムが日の目を見られるようになろうとしているのはうれしい限りです。
老人医療において、患者さんの診察のみで医師が集められる患者情報には限りがありますし、実際に、医師が一人で行える治療にも限りがあります。多職種が、それぞれの専門的なアプローチで集めるアセスメントは信頼性も高く、これらのアセスメントにもとづくケアも質の高いものになります。天本宏先生のおっしゃる老人医療は、キュアからケアへの在宅での実例になります。
これらのチームアプローチの結果、早期退院された患者の在宅復帰率を増やすことができました。そして、在宅患者の急性変化にも、ある程度対応可能な受け皿が出来あがってきました。
これらの在宅入院システムを成熟させることにより、2025年にピークを迎えるといわれている高齢者の慢性期病態に対応できるシステムが整備されるものと思われます。
在宅入院システムは、老人の専門医療を考える会の先生方にこそ、最高のノウハウが蓄積されていると思います。老人の専門医療を考える会には、実践者としてのライトスタッフがあると確信しております。
折りたたむ...内視鏡的に胃瘻を造設する経管栄養法(PEG)が安全に行えるようになり、単なる延命のために行われているのではないかと疑問が呈せられるようになってきた。PEGを行っている大部分の症例が終末期患者で嚥下が不可能になった時に行われているためである。急性期を乗り越えて再び経口摂取が可能になる患者もいるがそれほど多い比率ではない。多くの患者は意識が回復しなくても、年余にわたり続けることになる。欧米人はPEGで1年を超えて生きる人は少ないというが、日本人は何年も生きることが出来る。日本人は当初の予想に反し長生きしてしまうと云う事が、わが国でいち早くPEGを導入した鈴木裕氏が、PEG継続の見直しを提唱する根拠らしい。また医療経済を出して論じてもいる。これは乱暴な話だと思う。
死生学研究(第15号2011年3月)のジャン・ポペロによる「死 宗教と医学のあいだ」はフランスにおける「死」の変遷を解説していて興味深い。フランス革命以前のアンシャン=レジームにおいて、死は、聖職者が担う象徴体系としてあの世にうまく渡るという(希望のある)ポジティブな意味を帯びていた。これに対し、医学的な象徴体系では、死は意味のないものとして扱われる。患者の死は医者の失敗を意味することになる。医学は死に臨んで「諦念とより良い来世の希望」を説いてきた宗教的な象徴体系を、世俗的な象徴体系に置き換え、死を遅らせ、この世の生を延ばし、延命に努めることが優れて道徳的な闘いだという概念を広めていった。
そして19世紀末には医者は「君は私の兄弟だ、任せておきたまえ、私が君を助けてあげよう」というパターナリズムが台頭する。このような自負があると、患者に死が近いことを告げることはとても難しくなる。実際医師が治療不可能であると認めた瞬間から「ひそかな力関係は逆転する。治療の間は絶対的であった医者の権威は揺らぐ。近親者の愛情、習慣、利害関心という別の心理が前景化する」そして患者に対して「希望の幻想を抱かせることは正しいことだ」という主張が生まれくる。聖職者のことを、あの世という幻想で騙していると批判してきた医者が、自分のことを「現実的な希望」の担い手として、根拠のない「希望」の必要性を説いていた。逆にカソリックの医師は「自分に全幅の信頼を置いている人間を騙し、空しい幻想を抱かせ、嘘に満ちた約束をすべきではない」と「真実を告げるべき」だと主張する。
だが、病院が近代化し1970年頃になると、ほとんどのフランス人は病院で亡くなることになる。日本でもほとんど時を同じくして医療保険制度の整備とともに、病院で亡くなる人が大部分となってきた。「病院死の特徴は、手厚い医療処置と効率的なチーム看護だ」「社会の医療化は自然死の時代に終止符を打った。西洋の人間は(日本人も同様である)死ぬという行為を自分で取り仕切る権利を失ったのだ。息を引き取る時まで、健康は接収され、出来事に向かい合う力が奪われた。技術的な死が臨終の場で勝利を収めている。機械的な死が他のすべての死を凌駕し、他の死は無くなってしまったのだ」
1980年代から21世紀にかけて、「お医者様、私たちの死を返して下さい」という主張が始まってくる。「延命が肉体の最終段階まで――それをも超えて――可能になる時、正当な要求である」尊厳死、安楽死、緩和ケア、リヴィングウイルが叫ばれている。
医学の成功と栄光はどこへ行ったのか。死はもはや、医学が独り占めすることはできない。生の希望を延ばす闘いの時代を経て、QOLを求めて「植物状態の死を拒否する」「尊厳のうちに死ぬ」ことが時代の中心となっている。
しかし、ここにも新たな二義性があることを留意しなければならない。
折りたたむ...当会では、改めてターミナル・ケアのあり方について、ワークショップを開催してプロダクトを蓄積している。
今までにわかってきたことは「多分、その人らしい最期というものがあるのではないか」ということと、「それを見守る専門職集団には、ある程度の考え方はあるが、フローチャートで示せるわけではない」ということである。
ある人が「人生の最晩年はこのように生き、最期は無駄な医療を受けずに静かに死を迎えたい」と文書に残していたとする。このような場合には、本人の意思を最大限尊重すれば、なにも問題はなさそうである。しかし、想定外のことが起こる場合が少なくない。
多くの場合、家族が登場すると一筋縄にいかない。本人はともかくとして、家族の心はゆれる。家族全員の意見が目まぐるしく変わる。いろいろな支援はするが、それでも意見がまとまらない。なんとか意見を取りまとめようとすることが多いが、取りまとまらないうちに死が訪れることもある。
多くの医師は、献身的に対応するし、スタッフも必死で見守る。病院側に何も落度はなくても、家族からクレームが付く場合もある。仕事だと思えばそれまでだが、なんともヤリキレナイ時もある。
よく「本人の意思を最大限尊重する」というが、これは基本中の基本で、本人の意思がわからないとなると、それまでの病院でのやりとりや、家族からの聞き取りで判断するしかない。その家族の心がゆれる、そして私達は、その家族に最大限寄り添うしかない。
尊厳死という概念は重要だが、全ての人々がそれを達成できるとは限らない。動物の世界では自然死が当然なのかもしれないが、人間世界ではむしろまれな時代になってきている。死に方としては、突然死、末期ガンなどの予見死もあるが、認知症が進み本人の意思を確認することすらできない認知症死ということも、過半数を占めるようになってきていると思う。どのような死に方かによって対応はまちまちで、この死に方には、この方法というような方程式があるわけではない。
なにやら禅問答のような話であるが、考えてみると、人それぞれの考え方があり、人それぞれのやり方があることは確かである。ワークショップでは、比較的自由に話し合いを進めるが、それぞれの医師の考え方も、各病院の対応にも差があることが、参加者全員が理解出来ることである。しかし、何らかの結論に到達しなければならないということになると、ケース・バイ・ケースだと言わざるを得なくなる。それでは、成果が得られない。
死に方については、当会の会員はそれぞれの意見を持っており、死および死に方について、著書を出版している会員も少なくない。それでも、意見がまとまらない。「平穏死」が求められているとする人もいれば、「やはり在宅死を進めるべきだ」という人もいる。より現実的に「我々ができることはするが、できないことはできない」という人もいる。考えをまとめていくために、この最晩年のケアのあり方について、ワークショップを続けて開催することを決定している。
その理由は、このテーマが老人の専門医療を考える会として根底にあると思うからである。考え方は違ってもいいが、共に発言し、共に話し合い、そして共に考えるという作業を続けることが、重要である。
問題は、死ぬ瞬間ではなく、最晩年の対応であり、そのケアをどうするかといったことだ。また、この問題は医療従事者だけでなく、もっと広く世間で話し合われる必要があろう。
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