老人医療NEWS第115号 |
同時改定は平成24年4月に実施すべき。なぜならば次期同時改定では、これからの政策における中長期ヴィジョンとなる「第5期介護保険事業計画」、「都道府県における第2期地域医療計画」において推進していく、社会保障の方向性がメッセージとして込められるのである。
第5期介護保険事業計画の推進点は、医療や住まいとの連携を視野に入れた区市町村単位(一次医療圏域?)における地域包括ケアシステムの具現化に向けた介護事業計画であり、24時間365日体制の一次医療の再構築が医療人に求められる。診療所のみならず地域に密着した中小病院における在宅療養支援機能の需要も急増していくだろう。
また、平成25年には第2期都道府県医療計画がスタートするが、市町村の第5期介護保険事業計画および都道府県の介護保険支援計画、高齢者住宅整備計画を視野に入れた医療計画にならなければならない。これからの地域医療の再建には、一次医療圏域を視野に入れた二次医療圏域という構造・連鎖システムとすることが望まれる。急性期、高次機能病院とともに、地域に密着した地域包括ケアを支援する病院の整備が重要課題となる。
これからの社会保障における基本的スタンスは「適切な医療を適切な時期に適切な居場所で受けられる」ことである。安心して老後を過ごせる社会保障への責任・義務として高齢者自身も保険料を生涯負担し続けていくことが必要だ。社会保障を受ける側の視点が将来の医療提供体制の方向性・軸であろう。これまでは高齢者の病態、障害の程度に応じて箱ものを当てはめ、人生終末期において当事者を転々とさせる「たらいまわし」をしてきたが、高齢者の居場所で受け止める仕組みに転換させていくべきである。箱によってサービスが限られ、当事者はその箱の中のサービスに合わせなければならないといった構造は改め、適切な医療・介護を、適切な時期に適切な居場所において受けれるような制度設計に改善を図るべきだ。
同時改定における留意点として、医療保険、介護保険、年金保険の継続性、一貫性、相互補完性を担保し、相乗効果を創造していく社会保障を目指していくことが重要である。特にこの時期(後期高齢者医療保険の見直し)、両保険の改定を同時期に行う趣旨・使命は重大であり早期に政策の方向性を示していただきたい。「どのようなシナリオに向けて第一歩としての改定」を平成24年に行うかといった計画性が重要である。そして計画には「ポリシー」が不可欠となる。これまでの財源論主導、サービス提供側からの視点ではなく、当事者である高齢者・国民的視点で「社会保障を受ける利用者・当事者の目線」、保険料・税を支払う国民的視点が重要である。
高齢者ケアの基本原則はトータルケアであり、どこにいても必要なサービスが受けられるサービス構造に沿った重層的保険運用が望ましい。戦略、ビジョンへの議論の段階から、実行、行動変容に向けて、老人の専門医療を考える会は歩もうではないか。
折りたたむ...2008年に後期高齢者医療制度が施行されたが、本来高齢者医療は、外来・入院患者の大半を占める「普通の医療」である。経済学者が考えた財源論によって特別扱いされた社会保障制度が良いとは思えない。
財源論をすべて否定するつもりはないが、高齢者医療を医学でも経済学でもなく「医療」としてどう提供し続けていくかが大きな課題である。高齢者医療の量的な増加は予測できていた。ただ予測するだけではなく、若き医師達とそのありかたをもっと議論しておくべきだったと反省している。また、国民に対して、高齢化社会が「普通」であることを正確に伝え、話し合うべきであった。
社会保障の基本は、核家族化社会においても家族や近隣による見守り(互助)である。医療や介護が必要になれば、これに加えて専助(造語・専門家による見守り)が必要となる。しかし医師や看護師が不足する環境下で、「普通の医療」を必要とする高齢者は逆に増加する。このままではサービス提供者不足から「粗な医療」になりかねないと危惧する。
「粗な医療」にしないために医師等が頑張れば良いのだが、医師不足の中でこれ以上の頑張りは難しいし、医師が増えるわけではない。ではどうするか?例えば医師が遠方の高齢者を往診する場合、1日に数件しか往診にいけないことが多い。これを、テレビ電話診察にすると、往復時間が削減され、はるかに多くの高齢者の顔を診る時間として活用できる。当然ながら実際に往診が必要と判断したときには十分な時間をとって往診する。つまり粗になりそうな医療が、テレビ電話を用いることで回避できるかもしれない。また、それでも医師が不足する場合や非常時には他府県の医師・看護師の力を借りることも可能になるかもしれない。これは決して効率化だけの話をしているのではない。医療が本当に必要な人に医療資源を集中させ、同時により多くの人に医師や看護師による見守りサービスを提供するというメリハリ医療の実現である。
これを具現化するには新たなルールやITも必要となる。当然ながらIT化だけですべて解決することはなく、閲覧可能な医療情報が活用されなければ質の高いメリハリ医療は実現できない。つまり、人―システム―情報が連動することが多くの価値を生み出す。メリハリ医療は価値ある時間をも生み出し、またデータ活用により今後5年間で心筋梗塞を発症する可能性を個人にフィードバックしたり(予測予防)、症状を少しでも感じた場合は直ぐに専門医を受診するように指導する(早期受診)こともできるだろう。
頑張るだけの医療では将来が見えないが、メリハリ医療により、どこで、誰と暮らしていても、健康で安心安全な生活を支えてくれる「普通の医療」の実現、そしてデータを元に健康アドバイスにできる「高質化医療」実現の意義は大きい。特に今後発生するであろうリスクへの指導は高齢者にとって安心であり、まさしくこれが「専助」である。
私自身医師として、そしていずれ高齢者となる立場から、高齢者が地域社会に見守られ、神々しく存在し、安心して孫達に何かを伝えいくという使命を果たしていただける地域医療を提供したい。高齢者が地域から見守られ、同時に地域を見守る。このような地域と高齢者の関係が少子高齢化社会である日本をより良くする。ひいてはこれが「普通の社会」である。
折りたたむ...私は喘息持ちである。むせたり、風邪をひいたりすると息苦しくなる。タイミング良く吸入を始められると発作を起こさずにすむが、時期を逸すると苦しむ事になる。
こんな私が、認知症などで自らの言いたい事が的確に言えず、誤嚥を繰り返すようになったらどうなるだろうか。「できるだけ口から食べていただきたいので」と訓練が繰り返され、頑張って経口摂取を続けさせられるのだろうか。それでも何回も誤嚥を繰り返すようになったら、「胃ろうにしますか。それとも肺炎を繰り返して、徐々に低栄養になりますが、口から食べられるだけ食べて終末期を迎えられますか」と聞かれるのだろうか。
私の人生にとって、「食事」とは何だろうか。家族や親しい友人との食事は楽しみである。また、健康な生活をするためには、きちんとした食事をしなければならないとも思う。しかし、たとえ、どんなに美味しそうな料理であっても、わざわざ一人で食べに行くほどのグルメではない。ましてや、喘息発作の苦しみと天秤にかけるとしたら、早々と経口摂取はあきらめて胃ろうとし、口からは、誤嚥と引き換えても食べたいものを少しだけ(少量のアイスクリーム等)食べて、主たる栄養は、経管で補って欲しいと思う。多少の嚥下訓練や食事形態の工夫はしてほしいが、人手や時間をかけて頑張って経口摂取を続けるよりは、経管栄養でちゃちゃっと済ませて、図書館で徘徊させてもらったり、好きな映画をみせてもらったり、家族や親しい友人との時間が時々あればそれでいいと思う。
私の人生における優先順位は、身体の安楽、家族や友人知人などとのふれあい(自分の存在が誰かを幸せにするかどうか)、読書や映画や旅行等なので、食事というのは、これらを支える栄養補給の意味が果たせれば充分である。とすれば、認知症の末期や重度の脳卒中となり、前述の楽しみが得られず簡単な意思疎通すらも出来なくなった場合、私にとっては、食事や栄養の意味は無となる。つまり、意味不明の言動であっても「快・不快」などの能動的な反応が出来る間は、経管栄養をしてもらい、それ以降は、経管栄養を中止して、残された短い時間を愛する皆に囲まれて過ごす選択も良いと思う。(法制化が必要だと思うが)
反対に、「食事が人生における一番の楽しみ」という方から経口摂取を奪う事は、生きがいを失う事に等しい。そのような方が誤嚥を繰り返される時は、頑張って経口摂取訓練をし、ソフト食などの食事形態の工夫を重ね、それでも無理なら、声との引き換えに「喉頭分離術」をして、最後まで口から食べる幸せを選ぶかもしれない。しかし、それを選ぶ場合は、本当に美味しい食事がいつもできる環境を作らないといけないし、元気な間に、それが出来る財力と人間関係を作っておかないといけない。
高齢者医療に関わり始めの頃、胃ろうや気管切開、喉頭分離術などは、過剰医療だと思っていた。でも、それらを行う事で、療養者本人にとっても、また、その療養者を愛するご家族にとっても幸せな時間を提供できたケースも何例か拝見させていただいた。一方で、安易な胃ろう造設等によって、この方にとっての残された人生の意味を模索せざるを得ない、心の痛い結果になっているケースもみてきた。
結局のところ、胃ろうや気管切開などの医療行為は、それそのものが、「過剰医療」になるかどうかではなく、それを選択する過程において、この方の人生における意味を判断する事が大切なのではないか。当院では現在、臨床倫理の四分割法を勉強中である。これを活用して、言葉を失ったご本人に成り代わり、ご本人の人生のための選択をご家族と一緒に考え、最後までこの方の幸せを支えていける医療を目指していきたいと思う。
折りたたむ...老人の専門医療を実践するためにチームアプローチは必須な要件であるが、これがなかなか難しい。チームが目的を定めて、お互いに意思疎通して、キチットした業務をみんなで達成することを望まないトップはいない。だが、本当にチームアプローチが成功しているのか、それとも失敗しているのかを判断することはたやすいことではない。
専門職種の多くの人々の心の底には「人の役に立ちたい」、「技術を学び自分を生かしたい」、「自らの仕事をキチット評価して欲しい」という思いがある。医療や介護の場で働く人々は、自らの職業に対して「内発的動機づけ」が比較的高いと思う。金や地位や名誉より、仕事を通じて「世のため人のため」になっているという自負心が支えとなっている。
チームを構成するメンバー全員が内発的動機づけされていれば良いように思われがちだが、それだけではアプローチにならないし、職員の内面にいくら働きかけても、チームとしての成果が得られるとは限らない。
個人として正確に自らの業績を評価して欲しいという業績評価主義は、チームへの貢献を最優先することで達成されるチームアプローチと対立することがある。もちろんチームへの貢献を適切に個人の業績として評価できる仕組みがあればこのような心配はいらないが、経験上このような評価は難しいものである。
チーム構成員の一人がチームから去ると、チーム全体がなんとなくうまく行かないとか、新しいメンバーが加わったために、どうもシックリしなくなったということがある。チームリーダーは、このような時にチームアプローチの難しさや、チームを引っ張っていくことが大きな仕事であると思い知らされる。そして、トップもつらい。
運命共同体としてのチームといっても、それぞれが専門職で、個人業績評価に強い関心を示す場合、もともとチームアプローチは難題である。それでもチームを強調しすぎると、チームからはずれた一匹オオカミ的行動や言動にはしる人が出てくることが多い。言って聴かせてなだめても、なおらない。
チームがチームとして機能するためには、情報共有化、目的の一致、各メンバーの役割分担の明確化、リーダーシップとフォロワーシップの確立、業務に対するモニタリングと適切な評価など、いろいろな書物にいろいろなことが書いてある。たぶん書いてある通りなのであろうが、それを実現できているかどうか反省するばかりだ。
ずっと以前に「会社の寿命は30年」などという言葉が流行したが、実は「組織寿命は3年」しかないように思えてならない。うまくいっていると自画自賛していると、いずれ何らかのチーム上の問題が発生し、根本的に点検したり、問題点を考え直したり、研修を強化したりする。やっとどうにか復旧したと思っていると、また新しい問題が発生する。まるで、賽の河原の鬼のようだ。
当会は創立以降、チームアプローチに言及してきた。ワーク・ショップや職員教育あるいは組織の評価などについて自由に話し合いを続けてきた。その結果、チームアプローチという考え方は定着し、本会の根本的哲学となっていったように思う。時は流れて、メンバーの入れ替えもあり、最近は若いリーダーたちが参加してくれている。
新しいメンバーには、新しい考え方が必要だと思うが、チームアプローチという伝統のニュアンスがばらばらなように感じることがある。
チームアプローチは目標であり、目的であるが、それを達成させる努力は日々研鑽するしか方法がない。決して自画自賛することなく、切磋琢磨することが掟なのだろう。
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