老人医療NEWS第112号 |
昨年5月末から社会保障審議会介護保険部会の臨時委員に就任した。個人的には介護保険制度発足時の高齢者ケアサービス体制整備検討委員会の委員以来、10年ぶりに直接制度改正にかかわる仕事への復帰?である。委員就任にあたって10年前に私自身が何を考え、どのような主張をしていたのかを再確認するために、バックアップしているディスクを調べ始めた。一直線に熱いだけの文章ばかりで恥ずかしい限りであるが、結論から言えば、10年経ってもまったく主張は変わっていなかった。その一端を紹介したい。以下は介護保険制度導入前夜の文書である。
「公的介護保険制度の導入を目前にして、にわかに身辺が騒がしくなってきた。高齢者ケアサービス体制整備検討委員会の委員であるため、要介護認定と介護支援専門員養成に明け暮れた平成十年度から、最終段階である介護報酬を中心にした制度作りの大詰めを迎えたためである。様々な課題や問題が解決できないままの見切り発車であることは承知しているが、・・・
当院では、平成11年4月に介護力強化病院から完全型の療養型病床群にリニューアルした。療養型への転換は、在宅復帰を見据えた地域ケアの拠点作りを目指す当院にとっては通過点にすぎない。転換した病床をどのように活かしていくのかが重要なポイントであり、我々の使命である。介護と医療は、その対象者の自立のために必要な二本のレールである。この両者がいつも同じ間隔、同じ太さで、決して交わることなくつながっていかなければならない。」
今回の介護保険部会での主張もまったく同じで、「医療保険と介護保険は二本のレール」「在宅復帰と地域ケアの拠点作り」そして「病床をどのように地域のために活かしていくか」であり、中でもそのポイントとなるのが「リハビリテーション前置の考え方」である。地域のニーズに対応した適切なリハビリテーション(以下リハビリと略す)を適時に提供することの重要性を訴え続けた。部会委員の理解も得られ、10年前から主張してきた以下のような文言を加えることができた。
「リハビリについては、高齢者の心身の機能が低下したときに、まずリハビリの適切な提供によってその機能や日常生活における様々な活動の自立度をより高めるというリハビリ前置の考え方に立って提供すべきである。」「さらに、地域の在宅復帰支援機能を有する老健施設のさらなる活用なども含めて、訪問・通所・短期入所・入所等によるリハビリを包括的に提供できる地域のリハビリ拠点の整備を推進し、サービスの充実を図っていくことが求められている。」
当会を代表しての委員就任ではなかったが、どのような立場であっても「老人医療の質の向上の実現と老人医療の専門性の確立」という当会発足の原点を忘れず、高い志を持って真摯な姿勢を貫いていきたいと改めて思う今日この頃である。
折りたたむ...その人との付き合いは15年前に遡る。その人は20歳頃に終戦を迎え、戦後捕虜になり、一年程して引き揚げて来た。私との出会いは72歳の時「もの忘れ外来」であった。背が高く、堂々とした体躯であった。その後、5年程在宅で生活されていたが、もの忘れは進行し、妻や嫁が盗むという表現が目立った。戦争の話がよく出て、戦争に負けて申し訳ない、と言っていた。昭和27年に警察予備隊に入隊し定年まで勤務した実直な人だったが、認知症が進行し、夜になると「出かけねばならん」と家族を困らせていた。
4年前の6月、妻が亡くなり、当方のグループホームへ入所することになった。入所前の診察で、モゴモゴと話しをしていたので、付き添ってきた息子に聞き取って貰ったところ、「軍医が脈をとるまで・・」と言っているとのことだった。私はハイハイと答えて、入所が決まった。
優しい人で、グループホームでは「兵隊で覚えた」と洗濯物の取り入れ、下膳などの手伝いをしてくれた。だが、夜になると不穏になる事が多かった。その時間帯が、NHKの7時のニュースの後に多く、火事、事故、災害等の映像が報道されると興奮することが分った。「今、助けに行くからな」というような内容のことをブツブツと、でも叫ぶように話し、イスから立ち上がりソワソワし出し「早く、早く」と切迫し、時には目に涙を浮かべ、ホーム内をウロウロされる。そこで、ニュースを見せることを止めたり、不穏な状態になったらホームから外へ出て夕焼けを見たり、冬なら寒さを感じて頂いたりして気を紛らわせた。外に出て腕組をし空を見上げウンウンと頷いて、その後は穏やかになられた。ホームの施設長は女性であるが「少尉殿」と呼び、自らを「軍曹」と名乗っていた。
昨年の春頃より、ご家族の顔と名前が一致しなくなった。夏頃から食事も自力で摂れなくなり介護が必要になった。でも、介護者に「有り難う」という言葉を必ず添えてくれていた。そして昨年11月10日頃急に「俺もこれまで」とはっきりした口調で話し、それ以後、口に入る物は一切受け付けなくなった。一滴の水すら堅く口を閉じられて「いらない」と意思表示された。
ホームでの対応が困難となり、認知症疾患療養病棟へ移った。そこは100床ではあるが2名の精神科医と2名の内科医がいる。本人は元気なとき延命医療はしないと家族に話をしていた事もあり、PEG、IVH、その他の管も使わないと決めた。スタッフ総動員で、口から栄養をとって頂く事を毎回試みた。時には「少尉殿」に来て貰い、命令で食べさせたが、それもスプーン半分で終わった。
家族と相談し、感染症対策の点滴だけは繋ぐことが出来たが、気休め程度しか栄養は補給出来なかった。持って2ヶ月だろう、と言う思いがしたので、正月の私の予定は全てキャンセルし、その日に備えることにした。「軍医」という言葉を思い出していたからだ。その後も、下肢の拘縮防止や感染症防止、褥瘡防止に取り組んだ。ご家族も毎日ベットの脇に座って手を握られていた。そして、今年1月7日の昼「アッー」と大きく叫び、息を引き取られた。87歳の生涯の幕引きでした
折りたたむ...早いもので、私が老人医療に携わるようになって丸八年が過ぎました。現在45歳でありますが、40代は時速40km、50代は時速50kmで過ぎて行くということを聞きますとゾッとします。
実際、この8年間で老人医療に携わる医療人としてどんなことを見て、感じて学べたのかを整理することが必要であると思い、新しい年を迎えるにあたってこれまでの時間を振り返ってみることにしました。
当時、私の病院は医療療養病床135床、介護療養病床60床という体制でしたが、それまで介護保険というものにあまり興味は持っておらず(というか知識が全くなく)、病院の中でも、介護病棟は別世界というような空気もあったので、この60床を医療療養に変更しました。
次に行ったのが一般病床の取得です。といってもナースが絶対的に不足していたため、14床(特別入院基本料)でのスタートでした。現在は28床(10:1)となっておりますが、とにかく救急車の受け入れをしたかったのです。つまり、療養型病院から急性期病院への転換を考えていました。ですから、良質な老人医療を提供するために必要なことが全くなされておりませんでした。今から思うと無知というのは非常に怖いものです。
現在の当院は一般病床が28床、医療療養病床が156床のケアミックス型の慢性期病院となっております。救急車の搬入台数は年間約200台です。人工呼吸器は10台保有し8台が稼働中です。リハビリテーションのスタッフは、以前のPTが2名のみという状況から、現在ではPT・OT・STで15名に増加し、社会福祉士3名を含む地域連携室は計6名のスタッフで運営しております。看護部も8年前は正看護師7〜8名しかおりませんでしたが、現在では41名となり、栄養科も以前は管理栄養士1名、栄養士1名でしたが現在では管理栄養士2名、栄養士2名となっております。事務部門もスタッフの数は増えてきており、医師以外では量的にはかなり充足されるようになってきました。
老人病院機能評価は散々な結果でしたが、現在はさらなる量の充足と質の向上に取り組んでおります。リハビリのスタッフの数もまだ足りませんが「維時期だからこんなもんでしょ」という空気があり、何とか意識改革を促したいところです。認知症の患者さんへの対応も、現在は症状に合わせた個別対応を進めております。
終末期医療についても、これまでは一問一答式のようなごく簡単な延命同意書を使っておりましたが、当院なりの延命と救命に対する考えをしっかりと明記した物を用意し、患者さんとご家族によく理解してもらい、少しでも安らかな最期をという思いのもとに作業を進めております。拘束もかなり数は減ってきており、現在ではベッド柵のみでしょうか。このようにまだまだ完璧ではありませんが、今後も質の向上を第一に作業を進めていきます。
そして当院が最も得意とする救急車、高度急性期病院からの重症患者の受け入れについては今まで以上に力を注いでいきます。先日、医師会での救急についての集まりに呼ばれましたので、重症度や臓器だけで搬送先を決めるのではなく、長期入院が予想されるような高齢者については当院のような慢性期病院へどんどん搬送して欲しいと訴えました。今後は救急だけではなく病院の役割分担がもっと明確になることは間違いありません。
まだ書きたいことはありますが、字数オーバーとなるため、このへんでやめておきます。また、「こぼれ話」というよりは、自己紹介のような文章になったことを深くおわびします。初めての執筆という事でご勘弁下さい。次回からはしっかりと書きたいと思います。
折りたたむ...平成23年1月14日、菅政権の内閣改造と民主党役員人事が行われた。驚いたのは、たちあがれ日本を離党して、経済財政担当相に入閣した与謝野馨大臣だ。文部、通産大臣歴任後、第三次小泉内閣の金融経済財政政策担当大臣、安倍政権の官房長官、福田・麻生政権でも経済財政政策を担当した。「政界屈指の政策通」「財政再建論者」とか評価されているが、72歳の大ベテランで逸材である。
いろいろと批判されることはあるのかもしれないが、この国の政治的混迷と、まったなしの財政再建にうってつけの人材であると高く評価するべきなのではないかと思う。ただ、消費税を引き上げるとかどうかといった二者択一的な政治ショーではなく、わが国の税体系全体と財政の健全化、そして社会保障の充実といったことを同時に進めなくてはならない状況において、単なる選挙目当てではなく、この国のかたちを示して欲しいと思う。
サプライズということでは、藤井裕久氏の内閣官房副長官というのも引けをとらない。大蔵官僚、主計局主計官から政界入り、一度引退したものの、平成21年衆院選で当選、鳩山内閣の財務大臣に就任したものの、翌22年1月に病気を理由に大臣の辞職したが、今回復活した。この人も逸材で78歳である。
わが国は、政治的にどうにもならなくなると、いわゆる長老が登場することが多い。それでも、歴代総理大臣就任時の年齢が75歳以上は、大正3年の大隈重信、昭和6年の犬養毅、昭和20年の鈴木貫太郎の3人しかいない。昭和7年に総理を臨時兼任した高橋是清大蔵大臣を加えても4人ということになる。どの時代も国難の時期である。つまり、国難に向うには、老人政治力が必要ともいえると思う。
それに対して、変革を進めたと評価される総理は、60歳以下の就任が少なくないが、その後政治的混乱を引き起こすケースが多い。
戦後の自由民主党の政権が長く続いたが、政治的に安定していた時期はそれほど長くない。自民党が大勝すると、派閥の対立があり、その後の選挙で負け、混乱して再生するという繰り返しである。小泉政権の自民党大勝利、民主党大勝利、派閥争い、政治的混乱、そして長老登場という歴史の図式がみえるような気になる。
今、この国の財政経済状況は、国難といってよい。この政治的混乱は選挙民にも問題があるというか、批判する人が多くても、まとめる力や求心力をもったリーダーがなかなか誕生しない不幸な政治がある。
どのような組織でも、強力なリーダーシップを発揮できるのは、メンバーがリーダーに協力するという単純なことのように思えてならない。逆にいえば、老人政治力を結集して、メンバーが全員で協力するという状況を創ることに努力する必要がある。
与謝野氏や藤井氏の登場は、だれかがなんとかまとめてくれない限りどうにもならないのではないかという国民世論が形成されれば、ひとつの方向になるように思う。民主党と自民党との対決などというが、どちらかが政権を取っても、どうにもならないのであるから、自民党も協力して、なんとか経済財政と社会保障の再構築を進めて欲しい。
そのキーワードが老人政治力の結集ということになれば、実は六十五歳以上の人々の政治パワーが結集できる環境を創り出すことであろうと思う。孫やひ孫の世代に、借金をおしつけることなく、年金や医療を実質的に担ってくれる生産年齢人口のためになることを考える老人政治力を、しっかり発揮できなければ、この国はまとまれないのではないかと思う。老人の仕事はまだあるのだ。
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