老人医療NEWS第111号 |
先日、偶然、高校の同級生と卒業以来45年ぶりに再会する機会に恵まれた。彼は、県立病院の病院長を10年間勤め、この間に同じく同級であった市の医師会長と協力して、病院機能の見直しと地域の連携システムの構築を手がけたという。
その内容は、県立病院の一次医療機能を医師会の機能に移し、病院は二次・三次医療機能に徹することで、病院の経営改善と病院医師の負担軽減、地域医療連携が進んだという話であった。
このような新たなシステムが簡単に出来上がるはずもなく、苦労話も凄いものであったが、話の核心は、医療機関の役割分担が連携の前提ということであった。目標とするシステム図を実践した事例として、厚労省もヒアリングしたそうである。
筆者もリハビリテーションの立場から連携づくりに少なからずエネルギーを使ってきたつもりであるが、なかなか納得する形はできていない。
1975年、前任地の長崎で、障害を抱えたまま在宅生活を余儀なくされた人々に対する、寝たきり予防を目的とした活動を始めた。1978年には、「長崎市脳卒中リハビリテーション連絡協議会」という組織がつくられ、患者会の代表、リハビリテーション専門職、保健婦、社会福祉協議会、ボランティアなどがメンバーとなり支援活動が行われた。この組織は、1982年に施行された老人保健法による機能訓練事業や訪問指導などを通して、約15年間、離島や郡部の地域リハビリテーションの推進を担った。
1998年、小倉に赴任し、見知らぬ地域での連携に戸惑いながら、多機関・多職種の連携や連携パスなど新たな制度の推進にかかわっている。民間の医療機関における連携は運営の命運を握る活動であるが、前述の役割分担が明確でない地域の状況における連携では、機能的に競合することも少なくなく、協調と協働を目指すことの難しさを実感している。
我々が連携に戸惑っている間に、独り暮らし、認知症の後期高齢者が増え、とうとう自分も近くその仲間入りをする年齢となってきた。どう見ても、家族介護が前提の介護保険で、自立生活全般を支えることは不可能である。
これからは、計画された保健サービスと地域のインフォーマルな支援、周りのちょっとした気配りが欠かせない。したがって小地域に小回りの利く小さなネットワークをつくることにも課題となろう。
では、その輪づくりを誰がするのか。ケアマネジャー、サービス担当者、地域包括か。ことは、団塊の世代、私たちの世代の問題である。ならば、自分たちに合った地域をつくることに激動の時代を担った経験を役立てることも考えてみたいものだ。
当組織でも、改めてcommunity basedな活動の見直し作業に入った。
折りたたむ...先日、名古屋の介護保険事業者団体の主催で、名古屋市域の介護施設の現状と今後の動向についてと題するシンポジウムが開かれた。特養・老健・療養型、有料ホームやグループホーム各団体代表が集まってのパネルディスカッションがあり、そこで話題となったことを紹介したい。
特に興味深かったのは、老健の状況である。人口220万人の名古屋市には、現在、老健施設57、約5700のベッドがある。全施設の平均要介護度は3.3と全国平均とほぼ同じであるが、認知症高齢者の受け入れは若干高い。入所者の疾患も、脳血管障害が31.1%、心・血管障害14.2%、認知症22.5%、筋骨格系疾患15.6%等となっており、全国に比べ、脳血管障害の比率が低いものの、やはり認知症の受け入れ比率が高く、筋骨格系疾患の比率も若干高くなっている。
ここまでは、全国と比較してもそれ程の差はないのだが、これが平均入所期間となると名古屋が約600日と全国平均の2倍強に跳ね上がる。また、入所者の退所先も、医療機関が74.5%と全国の45.3%を大きく上回り、逆に自宅退所が、全国の31.0%に対し9.3%と格段に落ちる。
この現状をパネラーである、名古屋市老人保健施設協会長の宇佐美氏は、名古屋の老健は滞在機能優位、特養・療養病床の補完機能が強いと位置付ける。確かに数字からみれば、少なくとも在宅復帰施設としての機能は名古屋の場合は弱いと言わざるを得ない。
一方、名古屋市域の療養病床を見ると、一般病床・DPC病床が充実している割に、病床自体が少ない状況である。単純に人口比率で全国と比較した場合、約2500床不足となる。無論人口年齢構成等諸般の事情を考慮したとしても、1500床は不足していると思われ、市内約3500床の療養病床全体に対する不足割合は非常に大きい。前述の宇佐美氏が言われる通り、老健がその一部を補完していると考えられる。結果的に、老健施設の入所者の医療度は高く、また看取り率も全国に比べて高い(全国3.8%に対し名古屋7.8%)。
このように見ると、介護施設の機能自体に、施設の設置状況から来る地域差が出ることが分かる。特に中間施設と呼ばれる老健でそれは顕著であり、今後の施設整備等において、十分に考慮しなければならないことと思われる。
また、現在名古屋には施設数で78、約4000床の特定施設が存在し、県内でも有数の有料老人ホーム激戦地域となっているが、これなどもいわゆる都市部の特徴としてとらえらえるであろう。今後進むと思われる「地域包括ケアシステム」もこうした地域間の差まで考慮して設計されるべきであろうし、状況把握の為の具体的な施策が本質的に必要となろう。
例えば、医療圏毎に設定される病床整備計画では、名古屋医療圏の病床は削減するとの方向が長年謳われている。療養病床は過少であるにもかかわらず、である。今までの地域保健医療計画が、前述の療養病床過少を招いたと考えるのであれば、地域保健医療計画のような形式的な方策では不十分であるのは言うまでもない。
折りたたむ...高齢者が何らかの原因で嚥下障害をきたすと、誤嚥性肺炎を引き起こすのは時間の問題である。経口的に食事ができなくなったとき、栄養補給をどうするのかは重要な問題となる。食形態を変更し必要なカロリーが摂取できればとりあえず一安心であるが、カロリー的に不十分であればどうするのがいいのかが次の問題となる。当然、水分摂取も不十分であり、とろみ茶やお茶ゼリーなどうまく嚥下できればやれやれというところである。しかし摂取できても量的に少なければ脱水となり、補液せざるを得なくなる。補液により脱水は改善し、多少のカロリーが投与できても問題の何の解決もなっていない。肝心の嚥下障害を何とかしなければ埒が明かないからである。
食事を経口的に摂取できなくなってきたらどうするかということは、患者さんや家族の方もあまり念頭にないようである。癌の終末期などでは食べることができなくなったら、経管栄養などせずに、多少補液などして自然に亡くなることを希望されるのが大半である。しかし、脳血管障害などで急に意識障害をともない、同時に嚥下障害に至ってしまうときは、多くの場合、経鼻胃管を挿入したり、あるいは胃ろうを造設して経管栄養されて転院してくるのが通常のパターンである。脳血管障害でも意識障害がないか、あっても軽度な場合は嚥下リハビリすることによって、経口摂取ができる可能性が高いので一時的な経管栄養が有効である。だが遷延性意識障害が続いている場合は、栄養管理をどうするかが大きな問題である。嚥下機能の回復する見込みはまずない状態であり、経管栄養することが果たしてよいことなのかと考えてしまう。経管栄養しないと近いうちに亡くなることは明らかである。
今の社会通念では経管栄養をしないという選択は家族に受け入れられないように思われる。たとえば本人が病気を発症する前に、「病気になり意識障害で、自分で自分のことを判断できない状態になったときは、経管栄養などしてほしくない」と家族に話していた時はどうだろう。このような事例を経験したことがないのでなんともいえないが、多くの家族が経管栄養をすんなり受け入れている現状から考えると、いくら本人が経管栄養など要らないといっていても、現実に選択を迫られると「本人の意思」を尊重する家族がいるだろうかと思ってしまう。
一見、眠っているだけのように見え、嚥下障害があり経口摂取ができない状態であるが、本人が経管栄養を拒んでいても、経管栄養という代替手段がある場合は悩みながらもそれを選択すると思われる。なかなか「家族の死につながるような行為」を自分の判断で選択したくないというのが人情だろうと思う。しかし、これはいいとか悪いとか、正しいとか正しくないとかの問題ではないが、経管栄養というものの適応をゆっくり考えてみる必要があるのではないかと思われる。
遷延性意識障害で、経管栄養をして状態が安定している患者さんの家族には、こうして生きていてくれるのが私の生きがいですとおっしゃる方もおられる。そういう話を聞くと経管栄養というのも必要な治療手段かなと思う。しかし、PEGにより胃ろう造設も侵襲が少なく施行できるようになり、経管栄養の人が、当院の医療療養病床では毎年増加しており入院患者の5割を超えるようになってきた。胃ろうがあると施設などへの退院も制限され、結果として入院継続になってしまい、増加傾向に歯止めがかからない状態である。
果たしてこれでいいのだろうかと悩む。突き詰めれば死というものをどう考えるかに行き着く。自身で栄養摂取ができなくなれば死を受け入れるというような欧米の考え方にはすんなりなれないように思われるが、これからこれらの議論が必要ではないだろうか。
折りたたむ...政権がぐらぐらしている。平成18年9月26日に小泉純一郎首相が退任してから、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎の各氏が約1年間首相を務めた。続く鳩山由紀夫氏は、9カ月弱で任務を終え、平成22年6月8日に第94代内閣総理大臣に菅直人氏が任命された。
小泉元首相は「私の在任中は、消費税の引き上げはおこなわない」という発言をした。多分、消費税を引き上げない限り、社会保障の水準を維持できないことを十分に認識していたのであろう。あれから歴代総理は「増税」といえない。菅首相は、参院選時に「消費税増税を検討することが必要」程度の発言をし、ただちに撤回したが間に合わず、正直な発言であったとは思うものの、参院選は惨敗し、ねじれ国会が生みだされた。
民主党の政策の多くは、国民の耳にやさしいものばかりであるが、財源の手当がつかず、難産しているように思う。消費税が引き上げられないということを前提とすれば、給与所得や扶養控除をはじめとする各種租税控除の縮小や相続税の見直し、あるいは環境税などの新税の導入という方法しかなくなるが、どれもこれも政府税制調査会でもめにもめた。おまけに、法人実効税率や中小企業税率の引き上げや、証券優遇税制に関しては廃止するかどうかで議論があった。
一方、社会保障の給付については、年金、医療保険について財政対応を進めたものの、後期高齢者医療制度は、どう考えても改善というより、名称変更的でしかない。特に、70歳から74歳の窓口負担の2割への引き上げすら実現できないでいる。それでも、マニフェストにある子ども手当だけは、実施しようとするのは、財政的には大きな危険を伴うかもしれない。
私たちは、失われた20年を生きてきた。だれの目にも国力は低下し、若年人口も総人口も減少するのに老年人口だけが増えるという現実がつきつけられている。若者は就職も危うく、結婚はせず、社会の単身化、人間関係の希薄化、地域社会の崩壊が着実に進んでいる。
「税は政治である」。この言葉の意味は、税は政治が決める。税を決めるのは政治の責任である。税のために政治が動く。税のためなら政治献金だろうが、ロビー活動だろうが、ストライキだろうがなんでもするというようなことを含んでいる。
増税を歓迎する国民は僅かであり、減税を要求する人々は多い。隣国アメリカでは、ティーパーティーが政治活動を活発にしているという。タックス・イナフ・オールレディの頭文字だそうだ。
私自身も増税を望まない。しかし、社会保障の給付を引き下げることについては、賛成できない。そのためには、財源を確保しなくてはならない。租税か保険料かという大議論はあるが、全てを自己負担で賄うほど社会は安定していないし、国民は豊かではないのである。将来に対する漠然とした不安、政治に対する不信、生活の不安定化は、この国の形を再考することを求めている。
政治のリーダーシップが発揮されず、衆愚政治と揶揄したところで何も考えることはできないのである。しかし、この状況で各種社会保険給付、特に医療や介護の給付を低下させることは、不安、不信、不安定を加速することになってしまうのであるので、何としても財源を確保し、医療・介護報酬の同時改定で方向性を示すことが必要だ。
ここまでくれば、小競り合いや、くだらないスキャンダル合戦は休戦して、本気で税体系を再構築することが、この国にとって最重要な課題になっている。
消費税引き上げ絶対反対とはいわないが、医療・介護・年金・保育・教育・就労に関する財源確保のため消費税が必要だと説明するべきだ。
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