老人医療NEWS第110号 |
ここ20年、日本社会は逼塞感に覆われ、暗い時代は30〜50年くらい続くような気配である。成長を続けていた時代のリーダーは団塊の世代だったが、子供や学生は幼少より親に溺愛され、覇気を失った。変革を試み、イノヴェートする意欲が見えない。かつて、世界第2位に届いた経済力も今では30位くらいに低迷している。お家芸とされた自動車、電化製品なども、韓国に置いて行かれてしまった。わずかに「高齢者医療・介護」で先を走っているが、生産性のある分野ではない。
菅首相は「経済・財政・社会保障の一体的建て直し」を唱えているが、演説を聞いている限り、市民運動家的発想が見え隠れし、一国のリーダーとしての自覚が伺えない。今回の巻頭言は趣向を変えて、「高齢者医療費の財源」について私見を書いてみたい。財源とは税収のことで、どの税が上がっても同じことである。
小泉元首相に始まった首脳の脱税が、国民の規律心を萎えさせてしまった。彼は堂々と「幽霊社員」をしていた。前首相鳩山さんに至っては「違法贈与」で生計を立てていた。彼の収入は、母親よりの月額1500万円。高額な「贈与」であり、申告すれば50%近くが課税される。民間人なら、億単位の脱税は刑事罰が下る。脱税は反国家的犯罪にもかかわらず、その重大性について国民の認識は低い。
財源を求めて民主党は「税制調査会」を定期的に開催している。その膨大な資料のなかで、筆者(あるいは、課税当局も)が注目しているのは、消費税ではなく、「贈与税」と「相続税」である。鳩山前首相の例であきらかなように「贈与税」は把握が困難で、課税当局に徴税のツールがない。「相続税」も同じである。昭和58年、平成3年、平成21年の千代田区神田の200平米の商業地に課された「相続税」の変化が載せられている。2419万円→1億8918万円→592万円。バブルの時期を挟んで、相続税自殺者がでたこともあって、税制も対応した。結果、こんなに変わっている。
バブル時代に貯め込んだ実質資産は2419.4兆円、金融資産は1419.7兆円だそうだ。その7、80%は65歳以上の高齢者が所有している。しかし、この資産も個人レベルでは掌握できていなくて、100万人以上の年間死亡者の4.2%しか相続税を納めていない。1億円以上の資産家は14.3%もいるのに、である。
住基ネット(年金番号)を充実させ、国民総背番号制にし、きちんと徴税すれば、少なくと見積もっても1000兆円の税収が上がるはずだ。40兆円25年間分になる。これを見ても国家債務は大丈夫である。
大切なことは、高額納税者には勲章を出すとか、賞賛方法を考えるべきだと思う。国家財政に貢献した人を称える国民性を育成しなければならない。
ねたみ、やっかみではこの国難は乗り切れない。
折りたたむ...早いもので、私たちが在宅医療を始めてから15年がたとうとしています。私が在宅医療を始めるきっかけは、霞ヶ関南病院の齊藤理事長の話がきっかけです。「在宅を回っていると、お昼近くになるとお料理の上手な奥さんがいて、カレーを出してくれるんです」という話がきっかけでした。
そのころ、大学の4年先輩の森先生が病院に遊びにきてくれて、「照ちゃん、そろそろおれも開業しようと思うんだ」という話になりました。そこで私は齊藤先生の話を思い出し、「これからの開業は、軽自動車で患者さんの家をくるくる回るんですよ」と、言ってみました。すると森先生は突然立ちあがって「そんなのやらない」といって帰ってしまいました。
数日後またふらっと病院にやってきて「照ちゃん、こないだのあれやってみる?面白そうじゃない」というのです。
それからは大変で、何やかんやとあわただしく過ぎ、半年後に在宅医療を始めることになりました。在宅医療をはじめてみると、教科書もまったくなく、聞く人もいない状態なのに気付きました。そこで毎日、仕事が終わると、2、3時間ああでもないこうでもないと話し込んだ思い出があります。
そこでできた大きな柱は「ヒーローのいらない在宅医療」というテーマでした。国でいえば、古代のギリシャではなく共和制のローマです。また具体的には、24時間365日をどうカバーするかや、患者さんの安心感をどのようにして作り上げるかなど様々な現実的なテーマがほとんどです。話が熱くなったときには朝方まで話し込みました。
次にできた大きなテーマは「いつもリラックスして仕事をするためには、高度なシステム化された動きが必要だ」というものでした。このときできたシステムは、いまだに続いているシステムがたくさんあります。たとえば、タレント―マネージャーシステムや芸能プロダクションシステム、ブリーフミーティングシステム、お花係りシステム、ポスレジシステム、などです。
全部数えたことはありませんが、当時、当直室の前に張ってあった紙には30ぐらいのシステムがあったと思います。現在は消えてしまったシステムもたくさんあります。またその後に作ったシステムもたくさんあります。
最近は医師のライフバランスシステムや、主治医システム―チーム医療システムなど勝手に名前をつけて楽しんでいます。最近つけた名前でも最も秀逸なのは「ホームホスピタリゼイションシステム」です。略してHHSです。
HHSは次回のホームページの更新に載せようと思っていますが、在宅医療にある介護型の在宅医療と、医療型の在宅医療のうち医療型の在宅医療を動かす時のシステムです。在宅入院制度というのは何となく自分たちには合わないため、自宅の病院化システムを称してホームホスピタリゼイションと呼んでいます。
最後に余談になりますが、フランスに在宅入院患者さんのインタビューに行ったときのこと、地元の新聞に集合写真が掲載されたのを見て、在宅医療を続けていて良かったかなと少し思いました。
折りたたむ...老人医療に従事している者として、またリハビリテーション医療にも従事している者として常に不全感を抱いている。内省して考える。
自分が関わっている患者さんは常に何らかの辛い症状や障害を抱え、遠くない将来死を迎える。多くの場合、医師が最期を看取ることになる。そのようなときが来るまで私は患者さんが幸せな最期を迎えられるよう、十分に関われていたのだろうか?答えは否である。それは何故か。患者さんと深く話し合いを続け、患者さんへの理解ができていないからである。
人間はどのような環境に生まれ、成長し、自分の人生を送ったとしても、その人生はその人独自のものであり、他者には理解し難い思いや感情を有するようになる。そもそも自分とは異なる他者を正しく理解することは不可能である。不可能であることを自覚しているからこそ、少しでも正しい理解を心がけたいと思う。
しかし、現実はそのような誠実な思いを裏切り、日々患者さんへの深い理解に基づかない診察や看護師への指示程度の心ない医療に終わっている。患者さんとの話し合いがやはり少な過ぎるのである。患者さんとの話し合いに深みがないのである。今の医療制度のもとでは私の思いは傲慢なのかもしれないが、時間がないだけではすまされない。
それほど遠くない自分の死を想像すると、それまでの人生がどんなに苦しく辛くても、死に近いときから死に逝くまでの時間が心安らかで幸せであるならば、私は幸せな一生を送ったといえるだろう。
自分がされたいように他人にもしなさいというのはイエス・キリストの教えである。それが正しい教えとは断定できないが、私はできるだけ実行したい。だからこそ、死が近い人に対して、また、重い障害を抱えて生きている人に対して、その人の心からの願いや希望を意識していないことまで表現してもらえるよう努めたい。
どうしたらよいのか?他者への深い、より正しい理解ができるためには、自分とは異なる他者の本当の幸せを祈る優しい心が無意識的にも意識的にも必要である。そのような心は愛である。愛が意識的にも必要であるのは、愛は理性であるからである。その上、心からの願いや希望は死を受け入れていないときは正確に自覚されにくい。
急性期医療においては救命医療が中心になる。また、自宅に復帰するリハビリテーションに関しても生活動作のある程度の自立が求められるため、死の問題は先送りされがちである。しかし、慢性期の医療においては一般的治療と同時に死を受け止めることが、患者さんにとっても医療従事者にとっても必要なのだと私は思う。
医療の現場ではどうか。死を受け止めることなく老いが進行し、口からの摂取もできなくなっても、なおもっと生きたい人もいる。九十歳を過ぎて、本来ならば自分の死が近いことを自覚していてもよいはずなのに、それを受け止められないのだ。そのような人は胃瘻造設され、経管栄養により生命がある程度存続され退院する。ガンが進行し、死が近くなっていても、自分が終末期のガンであることを知らされることなく衰弱している患者さんも入院してくる。
そのような人に死が近いことを伝えることは難しい。ただただ心優しく、日々そのときそのときの患者さんの願いに応え、接することが必要と思われる。以上の2人のような場合、やはり死を意識して受け止められていないといいうる。
まことに人は、死を未だ差し迫ってはいないと思いつつ、死に逝く事実を受け止めて生きていないことが多いと思う。現在の私の医療においては「死に逝くこと」がこぼれていることであると私は思う。
折りたたむ...政治はある意味で言葉のバトルだ。菅直人総理の政治哲学は「最小不幸社会」の実現だが「最大多数の最大幸福」と唱えたのは、ジェレミ・ベンサムだった。このベンサムを「ブルジョアの禺昧」と批判したのがカール・マルクスということになる。
鳩山由紀夫前総理は、祖父一郎氏を引き継いで「友愛」といったが、内容がわからず言葉が伝わりにくかった面がある。70年代に「弱者救済」ということで「年寄りも、子どもも、障害を持った人も、零細企業経営者も、そして農民も弱者だ」といったのは言葉の魔術師田中角栄氏であった。
多くの人々が為政者の言葉に反応するという意味でも、政治家の抽象的言葉は大切だ。ただし、言葉の後に明確な方向性や政策が示されないと、ただの犬の遠吠えになりさがる。民主党が政権のリーダーとなってから、かなり時間が経過したが、党内での権力闘争に時間を労費し、具体的な制度・政策ができていないように思う選挙民は決して少数派ではない。
不幸を小さくするか、幸福を多数にするのかは、ニュアンスの差であるが、幸福を多数にするほうがポジティブで、最小にするのはネガティブに聴こえてならない。もちろん、医療や介護、子育てや就労に対して財源を投入する社会保障政策を強力に展開することが必要であることには議論の余地は少ない。
しかしながら、今不幸な人を救済するのか、放置すると不幸になりそうな人々に対してソーシャル・ネットを張りめぐらせるのか、それとも一人でも多くの人々に幸福であると感じてもらえる社会を創るのかといったような選択肢は、必ず存在するはずである。
児童虐待や若者の就労難のニュースに対して、なんとかしなければならないと感じる人々は多いが、どうすればよいのかといったことについては、正直よくわからないのだ。まさか、効果がありそうなら、かんでいいから、やればよいということにはならない。
多数の人々が、自らの意見を自由に主張することは、民主主義の基本であるが、自分勝手な意見ばかりでは、まとまらないということになる。それゆえ、政治が意思決定しなければならない場面に直面するが、いつになっても選挙民の顔色をみて右往左往するようでは国のかたちを間違うことになる。
果敢に意思決定する政治が求められているからこそ、政治主導が大切なのである。しかし、政治が常に正しいというのではないことは歴史が証明している。
それゆえ、多くの政治的意思決定は、責任とリスクを伴うのである。内向きで、責任をとらず、自らの権限を手ばなさないという体質が、最近の官僚バッシングの根底にあるように思う。このような批判が、政治主導を唱える為政者に向けられるようになれば、なにもまとまらないことになってしまう恐れがある。
いいたいことは、為政者は他を批判するのではなく、果敢に意思決定し、責任とリスクを担って欲しいということである。政治主導でも政策未定では、世の中は動かないのだ。医療や介護の制度・政策のゆくえは、政治の意思決定の結果でしかない。最小不幸社会を実現するのであれば、そのための明確な意思決定を示す必要がある。
医療・介護報酬をはじめ、医療・介護・子育て・就労の政策は、大きな社会問題であり、われわれは何としても対応する必要がある。この意味では、政治に依存するのではなく国民の一人として責任を担い、公共を守り、地域を創り、目の前の人々に貢献することが、重要であると自覚して、当会は活動していく。
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