老人医療NEWS第105号 |
九十五歳の肺癌患者さん
私はAさんという九十五歳の男性の訪問診療を行っていた。Aさんは地元では一時代勇名を馳せた人物であった。彼には二年前に肺癌が確認されたが、本人及び同居家族の希望で外科的手術は勿論のこと肺癌に対する放射線抗癌剤治療も行わないとの方針を決めていた。自宅の畳の上で死にたいと常々口にしていた彼は、高度の認知症となった奥さんを十年近く一生懸命在宅介護し、一昨年の夏看取ったばかりであった。
昨年冬のある寒い日、Aさんが高熱を出した。病院にお連れし、CT画像で肺炎と診断した。肺炎治療を入院して行うことも考えたが、彼の希望もあり在宅で治療することとした。
治療をはじめて三日後のこと、予定どおり往診したところ、なんとAさんは主治医の私に一切の相談もなく近くの一般病院に入院していたのである。「遠方にいる親戚が来て、悪くなる前に治療をしっかりするべきだと言われ無理やり入院させた」と同居家族は私に詫びた。介護している家族と、介護していない親戚の意見の食い違いは度々経験することである。
療養病床と医療費削減
Aさんは先に述べたように肺炎を併発した肺癌患者であったが、入院先の病院は肺炎治療が終ると抗癌剤による肺癌治療を始めてしまった。そのためか否か抗癌剤投与開始二週間後には腎不全となり、その後悲惨にも九十五歳にして人工透析が始まった。結局透析を数回して他界したと家族から連絡があり、「最後は気管切開に人工呼吸器までつけて、かわいそうであった」と話していた。
一般急性期病院は患者を救うべく必死に治療するのであろうが、高齢者医療は一般成人の医療とは大きく違っていることをしっかり認識すべきである。
療養病床での治療費が医療費を圧迫しているとの判断のもと、療養病床削減計画が実行されているが、削減すべき病床は人間性を無視し医療費を浪費しているかもしれない一部の一般病床である。療養環境を整備し、リハビリテーション、緩和ケア、終末期ケアに精通した療養病床を増やす事こそ医療費削減の切り札となり得るのである。
最後に一言
生意気に他人の行為を批評しても、自分自身は如何にと言われるとたちまちあやふやになってくる。
自浄作用が働かない組織は国民から支持されないと云われる。自民党長期政権が今回の衆議院選で大敗したのは、党内の自浄作用欠如に国民がNOを突きつけた結果である。
すなわち自己評価、第三者評価が必要な所以である。しっかりと地域に密着した良質な医療をめざすためにも、的確な臨床指標を医療現場に定着させることも肝要である。
折りたたむ...八月の「日経新聞」の有料老人ホームの全面広告。イケメン会長の写真と共に「四大ゼロへ」が新しい介護のスタンダードだと云うのである。四大とは「おむつ」「特殊浴」「経管食」「車椅子」のことで介護側の利便性や省力化のために安易に繁用しないことこそ真の介護であると云うのだが・・・。
残存能力のできるだけの温存のためリハビリ等々も含めて努力目標としていることは介護の常識であり、今更の宣伝事項でもあるまい。老人はある日突然他界するわけではなく、努力にもかかわらず「動けなくなった時」、残った人生をできる限り安楽に穏やかに過ごしてもらうのが「介護」であり、その時点からの「四大」はむしろ「四種の神器」とも云うべき貴重な道具である筈である。多少元気な老人にとっては「ゼロ」でも、老人ホームが「終の棲家」をめざすなら介護に対するこんな認識はいかがなものであろうか。
同じく九月の同紙によると「ゼロにこだわる」「ゼロの宣伝文句にひかれる」消費者は七〇%とある。送料無料とかゼロと云うと不要なものまで買いたくなるのが心理であるとのことだ。
しかし、「ゼロ」が介護の宣伝にこのような形で使われてよいものか。「四大ゼロ」よりその先をどうするかこそが介護の最重要課題であろう。
また、「老人ホームは、ご入居者様の幸せのためにだけある」ともあるが、そうであろうか。吾々介護に携わる者は次世代(介護世代)の充実した社会生活のためのお手伝いもしていると自負しており社会貢献の意義を感じている。
ともあれ、車椅子より便宜性、おむつのあり方、特殊浴と一般浴の使い分けなどなど、検討事項は限りないが、質の向上を云うならば経管食にしても半固形流動食の活用、脱水予防のための大量皮下輸液、在宅にも活用できる褥創のためのラップ療法等々、終末期介護のための技術に眼をむけるべきではないか。いずれは「医療を伴わない介護はあり得ない」のであるからキレイ言ばかり云ってないで人生の終末や緩和ケアのための現実をみつめるべきである。
余談だが、最近のメディアは大衆迎合どころか世論誘導の危惧さえ感じられる。広告、宣伝にしてもポピュリズム、多数決、付和雷同のみによって社会が動かされるのはどのようなものだろうか。
九月の週刊新潮、選挙特大号の見出しに「われら衆愚の選択」とあった。衆愚とは久しぶりに聴くコトバである。
今回の政変を腐すつもりはないし、むしろ心機一転、期待半ばするものであるが、マスコミのとりあげ方は如何であろうか。話題性ばかりを追求しているように思われ、釈然としないものがある。
われら高齢者にとっては五十年前、失脚はしたがインドネシア大統領の「指導された民主主義」というコトバが憶いだされるのである。根拠のある多数決が必要なのではないか。
折りたたむ...医師になって二十六年になるが「老人医療とは何か?」と問われると、これまで診療に当たった患者さんの半分以上は高齢者(老人)であるのに確たる答えを持っていない。と、いつも思う。
研修医からかけ出しの外科医の頃は手術適応の患者さんが七〇歳以上の場合、心肺機能、腎機能、肝機能、栄養状態、総合的な全身状態を評価し、手術リスクをはかりながら手術可能か不可能かをまず診た。まずと言うより全てであった。術後は全身管理と合併症併発予防に努めた。全身状態が落ち着き外科医としての治療が終わり退院を告げる(少し誇らしい気分で)。
体重が減少したまま、まだふらつく、食事が充分取れない、歩けない等いわゆる廃用症候群の状態であっても、そんな認識はなく、口には出さないが「家に帰って寝ているなり、少しずつ動いて元に戻すなりして下さい」という感覚であった。
その後家業の鵜飼病院を週一回手伝い八年目で常勤医になった。当時二八〇人の入院患者さんのうち急性期一般の患者さんは五〇人程度、後は長期入院患者さん。手術件数はめっきり減り、長期入院患者さんを多く診るようになった。
脳血管障害以外の高齢者で寝たきり状態、褥創あり、四肢拘縮、の患者さんを診て、自分が今まで手術した患者さんのなかにも寝たきりになって、家へ帰れず病院を転院してこうなっている人もいるのだと解った。ある患者さん(高齢で寝たきり、下肢拘縮、気管切開、経管栄養)にリハビリを行ったら、半年後には食事は自立、車椅子自走まで回復し退院した。それを目の当りに見てリハビリの価値と感動を覚えた。
平成十二年鵜飼リハビリテーション病院を開設し、脳血管障害、廃用症候群、大腿骨頚部骨折の患者さんの回復期リハビリテーションに従事している。患者さんの八割以上が高齢者(老人)になった。
廃用症候群を理解し、早期からのリハビリテーションの必要性を強く感じ、患者さんの機能回復とADL能力を再構築し、自宅へ帰ることができるように努めてきた。
退院後は慢性疾患の治療と維持期リハビリテーションを続けるために診療所や介護保険サービスと連携し自宅での生活を支援できるようにしている。
チームアプローチの重要性にも気づいた。医師のみで患者さんを診れないことは解っていたが、チーム医療と言いながら医師としての治療が終ると「後はお願いします」とコ・メディカルスタッフへ丸投げをしていた。しかし回復期リハ病棟に従事してチームアプローチができるようになった。
回復期リハ病棟ではADL能力を出来る限り回復させ自宅退院を目指す。入院時から患者さん・家族にチームで接し、退院までに本人・家族の安心、納得、また介護保険の導入、環境調整、ケアプラン作成へのサポートを行う。これらは繋がっており退院後の生活の質を左右する。またチームの協業が不可欠で単独職種、一人ではできない。
これまでを振り返ると、「病を診て患者さんを診ず」といった駆け出しの頃に比べて、患者さんが生きてきた軌跡に敬意をはらい、その人らしい生活を思い、家族の状況を理解し可能な中での解決策を考えるようにはなってきたと思う。
武見太郎先生は「医療は医学の社会適応」と言われたと聞くが、いろいろな事情をかかえた患者さんの背景もふまえた治療、また問題解決にも少なからず関わることも医療とすれば、老人医療はその密度が一番濃いものだと感じる。
これからも患者さんの背景を含む全部を診る力を養っていきたい。
折りたたむ...政権交代した。この先、何がどうなるのか良くわからないが、厚労省の官僚は沈黙したままた。これまでの医療政策の展開は、すさまじいものであり、毎年のように制度変更が実施され、ついて行くだけでも大変であった。
診療報酬も介護報酬も引き下げられ、毎年二千二百億円医療費の伸びを抑制し、一方では医療供給体制を大変革しようとしたことは、なんとなく理解できたが、なぜそうしなければならないのかについて論理的根拠があったわけでもないし、政治的な選択だったとしかいえない。後期高齢者医療制度についても、同じことで、国家財政の再建とか、健康保険組合が負担できなくなったとか、国民健康保険財政が成り立たなくなったといわれていたが、民主党が「老人保健制度にもどす」といえば、もどれるものなのかどうか判断できない。
鳩山政権は、連立内閣であるものの、民主党のマニフェストをなにがなんでも実施するとの姿勢をくずさない。医療について、医師数を一・五倍にするとか、インフルエンザ対策とか書いてあるが「老人保健制度にもどす、療養病床の削減はしない」といった明確なメッセージは、あまりない。
問題は後期高齢者医療制度にあることは明らかで、七十五歳以上の人々が、現状に満足しているわけでないものの、民主党が見直すといっているのだから、いずれそうなるのであろうと思っているにすぎない。ただ、世論は、この名称にどちらかというと反対で、福田元総理と舛添前厚労大臣が「長寿医療制度」と名称変更したものの、なんの解決にもならなかった。この先時間をかけて制度の見直しを進めるべきである。
民主党のマニフェストをはじめ、医療あるいは介護政策に関する考え方を示した文書を読む限り、具体性がないように思う。それは、これから考えるといわれれば、そうなのかもしれないが、大病院、公立病院における、救急、外科、産婦人科、小児科等は充実するが、開業医は敵であること、老人医療政策について「老健法にもどす」以外のことでは、政策らしい政策がないようだ。
われわれが不安になるのは、政権交代はしたものの、政策が後退してしまい、マニフェストに書いたことだけに多額の公費を投入し、あとのことは来年の参院選後にしてしまおうとしているのではないか、ということである。
われわれが知りたいのは、来年の診療報酬の方針、二年半後の介護・医療同時改定の方向性、医療法改正のゆくえ、そして、医師法、保助看法をはじめとする医療従事者の業務分担の見直しはどうなるのかといったことである。もちろん、介護療養型医療施設はどのようにするのか、療養病床はどの程度必要なのか、そして高齢者を中心とする慢性期医療はどうするつもりかについての、明確な政治の意思決定を知りたいのだ。
小泉政権時代の社会保障給付の抑制策は、短期的に成功したようにみえたが、医療崩壊をはじめ無理な政策展開のひずみを生じてしまった。結果として国民に大きなつけを残しただけであった。いくら政策を立案したとしても、市場や経済が解決する事項と、政治が解決できることは同一ではなく、いくら政治判断しても、市場が対応しなければ、何も変えることはできない。
多くの高齢者が介護と同時に医療を必要としている現状において、マニフェストだけで改革しようとすれば、また新たなひずみを生むだけである。きちんと当事者である高齢者の声を聴き、現場の医療従事者と話し合い、その上で政策立案して欲しい。
沈黙の厚労省官僚がどのように考えているのか知らないが、政策後退局面で無策だとすれば、おそろしい。
*へ ん し ゅ う 後 記*
頑張っている現場をみると明るくなる。スタッフが丁寧にケアし、老人にあふれる笑顔は人の本来の姿を見せてくれる。こんな素晴らしい職場をもっと多くの人に知ってほしい。
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