老人医療NEWS第63号 |
人間は、必ず「死」を迎える。死を迎える場所は、八一・二%が病院(+診療所)、十三・五%が在宅、二%が老人ホーム、〇・六%が老人保健施設、その他二・七%である(二〇〇一年人口動態統計による)。どこで、死を迎えるのか、日本では、この三十年の間に在宅より病院へと、大きく変わった。これが十年後にどうなっているのだろうか。介護保険によるサービスが、普及、向上していけば、在宅での看取りも増加しそうである。また、施設での看取りも増えるかもしれない。しかし、日本では、療養病床、なかんずく、介護療養型医療施設での看取りの役割がしばらく続くことは、間違いなさそうである。
二〇〇二年、九月二四日・二五日、大阪で第十回介護療養型医療施設全国研究会が開かれ、特別企画の一つとして今年も「高齢者のターミナルケア」がとりあげられた。私は、三年連続この特別企画のコーディネーターをさせていただいている。一年目の二〇〇〇年の東京大会では、私ども企画側と、出席者との間が今ひとつフィットしていない、という感じもしたが、二〇〇一年の沖縄大会、今年の大阪大会では、会場に参加者が溢れ(無論、会場の大きさにもよるが)、とても、熱気のある企画となった。介護保険の導入とともに、療養病床なかんずく、介護療養型医療施設は、特養、老健と、どこが違うのか、一般病院とどこが違うのかと、論議されるようになり、その役割の再検討、再認識が求められている。そんな折、まさに、「高齢者の終末期を担うのは、介護療養型医療施設である」、という使命感さえ、会場に漂っていたと感じたのは、私だけであろうか。
これまで、「ターミナルケア」「終末期医療」「緩和ケア」「ホスピス」などの言葉の対象として語られていた疾患は、癌であった。比較的若年で、認知もしっかりしていて、かつ、期間が割合はっきりしている癌死は、今後もこれらの言葉の主たる対象疾患であり続けるに違いない。しかし、高齢者の死亡の原因が、癌以外である場合が、はるかに多いのも紛れもない事実である。高齢者が急速に増加している現在、「高齢者のターミナルケア」は、まさに、今日的課題と言ってよいだろう。
高齢者のターミナルは、多彩であるが故に、ターミナルの定義を細かく論じても生産的とはいえない。従って、私どもは、「障害や、疾患を持ち、慢性の経過をとった高齢者が、発熱などの特別な理由がないにも関わらず、介助者の援助によっても経口摂取・嚥下ができなくなってきた時が、ターミナルに近づいているという黄色信号」としてとらえている。そのような場合には、医師、看護・介護職を中心にカンファランスを開き、ご家族と話し合い、その方にふさわしい処遇を考えていくことが、今、すべての介護療養型医療施設に求められている役割ではないかと、思うのである。
折りたたむ...この度私共の病院は県から平成十四年度身体拘束廃止相談窓口事業の業務委託を受けることになった。
身体拘束とは、衣類または綿入り帯等を使用して一時的に当該患者の身体を拘束し、その運動を抑制する行動の制限をいう(昭和六十三年四月八日厚生省告示第一二九号)が、もちろんこれを憲法三一条に定められているように「法律の定める手続き」によらず恣意的に行うことは不法である。
刑法以外で以前からこの法的手続きを定めているのが「精神障害者の医療及び保護」を目的とした精神保健福祉法であるが、そのなかに行動制限の形として二つ挙げている。
一つは先述の身体拘束であり、もう一つは隔離であり、施錠等による閉鎖的環境の部屋に一人で入室(二人以上は不可)させることをいい、これらを行ううえでの手続きを定めている。
そして病棟出入口が施錠され出入りが自由にできない閉鎖病棟に入院の際は、本人の同意が得られなければ医療保護入院等の強制入院の手続きをとらねばならない。
平成元年一月二十五日発行の本紙第十九号に「施設内痴呆老人の人権―精神保健法(当時)に照らして―という一文を載せてもらったのは、身体拘束はさることながら、隔離、閉鎖処遇が高齢者施設において、自らの行為に何も疑いもなく当然の如く行われている実態を一再ならず目にしたことによる。
そのころのことを考えると遅きに失したとはいえ実態は改善の方向に向かっているといえよう。
とはいえ「縛ることは絶対に許せないことだ」と原理主義的に拘束の概念、範囲を拡大する傾向があったりして身体拘束には厳しいが、それに反してもう一つの行動制限である隔離、閉鎖処遇に関しては相変わらずなおざりにされているのはどういうことか。
ともあれできるだけ行動制限を行わない、より質の高いケアを提供することはわれわれの責務である。
しかしながらそこには大きな壁がある。それは看護・介護スタッフの員数の問題である。 困ったことに、現在、介護療養型医療施設のほとんどが選択している、看護六対一、介護三対一の最も人員の多い基準は来年四月以降は廃止されることになった。努力して何とか員数を確保してケアの向上を図ってきただけに何ともやり切れない思いである。
いよいよ日本号はハードランディングの体勢を固めたようなのでこれから一層失業者が増加してくる。その受け皿をこれから整備することが喫緊の要事であるが、現に今、医療、介護の現場はもっと人を欲しているのである。それなのになぜそこまであえて踏み込んで人剥がししようとするのか。
「改革なくして成長なし」、その通りと思う。
しかしながら改革とは不経済な分野を手入れ整理して、経済効率のよい分野は残し育成することではないのか。一律にこわしたら破壊というのではないか。これではハードランディングしてみたら乗客は全て死んでいたということになるのではないか。
以上ボケ医者の「妄」論。
折りたたむ...某年某日、近所の民生委員から突然往診の依頼があった。七月末の酷暑の時期、近所のおばあさんが二日間家から出てこない、新聞も二日間郵便受けに残っているからみにきてほしいという依頼である。事情がよくわからないが一人暮らしらしい様子なので、ケースワーカーをつれて看護婦と三人で往診に行くことになった。件の家は締め切ってあって、どこからも入れそうにない。台所の窓が十センチほど開いていて背伸びをして覗いてみると何か人間らしい物体が見えるが呼んでも応答なく、かろうじて人一人入れる隙間から進入。
中は薄暗く強烈な暑さの中で異臭が漂っていた。診ると右片麻痺があり嘔吐、失禁、三八度発熱、呼名にかすかに目を開ける程度、肩や腰にはすでに褥瘡があり、二日間誰に気づかれることもなく、飲まず食わずで放置されていた様子が伺えた。民生委員は、入院が必要なら貴方の病院に頼みたいということで、救急車で当院に搬送し経管栄養を始め全介護の状態で入院していただいた。
このケースには後日談があり、要介護度が判明する一週間くらい前に、区役所の介護保険担当員から病院に電話があり、「この方の要介護度は3です。認定審査会の意見ではこんな重症を介護施設に入れるのはおかしい、一般病院に入れるべきである。介護療養型医療施設に入院することができるのなら、介護度は3でよいということになりました」と伝えてきた。この電話を聞いた病院側は釈然としなかった。
要介護度は認定審査会における二次判定の結果を被保険者に通知することによって、知り得るのではないだろうか、これまでに一度も事前に要介護度を通知してきたことなどないのに今回は何故だろうか、認定審査会の合議内容は非公開ではないのか、利用者が医療可能な介護施設を希望していれば、受け入れは当然ではないのか、また介護療養型医療施設は重医療と重介護を兼ねた利用者を受け入れることに社会的意義があり、自院の能力をこえた医療が必要な状態であれば他の医療施設に移送するなど、利用者の側にたったサービスを基本として運営されているはずである。さらに介護認定審査会では利用者のサービス選択に関して意見を述べることができ、サービス事業者は意見を尊重しなければならないとされているが、それによって介護度を変更することは有り得ないことである。
疑問に答えてもらうために某日、区役所を訪ねたが、担当者不在として答えを得ることができなかった。知りえたことは件の審査会は四人で開催され、一人の開業医と三人の非医師であったということである。意見は割れたが医師の強い意見と剣幕に押されて三人は黙ってしまい、介護度3になったということであった。病院側としては介護度を問題にしているのではなく、予め介護度を知らせたり、介護療養型医療施設の入院なら3でよいという認識を問いたかったのだが。
常々感じることではあるが、介護療養型医療施設の存在が社会全体に認知されていないもどかしさ、さらに医療の世界に身を置く一般病院や開業医の医師、看護師を始めとする各職種の方たちでも、十分に介護療養型医療施設を理解していない現実を、どうすればいいのか。介護療養型医療施設にいる私たちのこれまでの努力不足も指摘されるべきだし、また社会的に認知されるためには一部の施設だけではなく、全体として施設のグレードを上げていくことが必要であり、そのためには組織的な対応も必須であると考える。ちなみにこの患者様は、早期理学療法の甲斐あり徐々に改善、多少の跛行を残して身の回りのことは自立され、十ヶ月後に老健施設に移られた。
折りたたむ...厚生労働省は、昨年九月に「二十一世紀の医療提供の姿」(試案)を公表した。それに引き続き本年三月に坂口大臣を本部長とする「医療制度改革推進本部」を設置し、検討を進め、八月に中間まとめを公表した。内容は、盛りだくさんであるが、基本的には、昨年の試案をベースにしている。
この中で、医療機関の機能分化・重点化・効率化という観点から、病院病床の機能分化の促進がうたわれており、別添として「病院病床の機能分化(イメージ)」が示されている。この図では、医療保険適用療養病床の機能の明確化、十五年八月末の病床区分届出という文字があり、その下に矢印がついていて、介護等への転換、介護・福祉との連携強化。在宅をベースにした地域医療の提供という文字がある。
別に目くじらを立てるわけではないが、どうみても、イメージは鮮明であるとしか思えない。つまり、病院病床は、一般病床、療養病床、その他病床等という区分から、急性期、回復期リハビリテーション、長期療養・在宅療養という三区分が念頭にあり、療養病床は、回復期リハと医療の必要度の高いもののみを対象とする医療保険適用か介護保険適用、さもなければ転換型老健施設という四区分に収れんさせようとしているとしか考えられない。
それは、そうなのかもしれないと思うが、どうもスッキリしない。医療の実践者からみると、というより、医療保険適用の療養病床という立場からみると、今後は大量の療養病床が行き場を失うようにしか思えない。急性期で生き残れない病床が療養病床を選択することは、まちがいないであろう。介護保険適用になりたくても、もう介護に移行できない地域もある。こうなると医療保険にとどまざるをえないが「機能を明確化」されればされるほど、行き場がなくなるはずである。では、転換型老健施設かといえば、そんな決断ができるのであれば、ずっと以前に行っていたはずである。
今後明らかなことは、医療保険適用療養病床の受難である。
では、介護保険適用はだいじょうぶなのであろうか。
これは、これで変なのである。十一月十八日の社会保障審議会介護給付費分科会の資料では「医療保険適用の療養病床との基本的な役割分担と整合をどう考えるか」とか「要介護度の低い入院者や、医療の必要性の比較的低い者が多いことを踏まえ、要介護度の高い者の入院を評価すべきか」などと書いてある。よくわからないが、いいたいことは「医学的管理下における重度介護者に重点化した施設が介護保険適用の療養病床だ」ということであろう。
ここでまた、である。介護保険病床の重度介護者以外はどうするというのであろう。それは別の施設か在宅で対応すればいいのではないかということであろう。いろいろ読み合わせてみると、なにがなんだかわからなくなってしまう。全体としての問題とは、なんなのかといえば、医療費が大変だということであり、どうも老人医療費が原因らしい、それも長期入院だというステレオタイプの主張があり、そうだ病床を減反すればいいのだということになり、そのターゲットが医療保険の療養病床であるのだろう。しかし、考えてみれば介護の療養病床だって、要医療・重介護に限定しておけばいい。特養や在宅に重点化すればいいではないかということになっているように思えてならない。
でもである。今の状況は、結局のところ、厚労省自体に、療養病床を明確に区分したり、医療と介護と住み分ける理論が不在なのではないか。そして、腰も決まってないようにみえるのは、うがった見方なのか。
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